手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

「知る」と「智る」の違い

 万有引力という理を認識する方法には次の二つがあります。
①目の前で落ちるある物体の落下を観察し、分析して引力の法則を記号と数式とで表して理解する。
②どこか高いところから飛び降りて、自らその引力を体験する。
同じ「引力」という言葉でいわれる「もの」(理)なのに、①と②とはどのように違うのでしょうか。

①は心の中の影像(A´)の動き、すなわち落下を観察するのに対して、②はAとかA´にわけられない引力そのものになり切ってしるという知り方です。
 ところで、①の場合は図示することができるのですが、②の場合はどうしても図に描くことができません。それはなぜでしょうか。それはなり切って体験するときには客観と主観とが未分の状態なので、空間がそこに存在しないからです。ですから、二次元、あるいは三次元の図で象徴的に描くことができないのです。図に描くことができるもの、それは心が主観と客観とに分かれ、客観として、すなわち対象として認識されたものに限られるのです。
 このように考えてきますと「しる」という和語に対して漢字を用いて表すと、
(一)知る
(二)智る
の二つを当てることができます。このうち、前者はあくまでも直接知るのではなく、対象として、しかも記号化され、数式化されあるいは言語化された「もの」として知る方法であり、これに対して後者は対象としてではなく、それになり切ってしる、一体となってしるという智り方です。(二)の智り方には言葉や記号は必要ありません。しかし、(一)の知り方には言葉や記号が必要です。
【「唯識」という生き方 横山紘一 大法輪閤 P96~P98より】



ここでは、「万有引力」を例として挙げています。
では、『南無阿弥陀仏』という言葉についてはいかがでしょうか。
南無阿弥陀仏を「知る」と南無阿弥陀仏を「智る」とでは雲泥の差です。つまり、南無阿弥陀仏を単なる記号や呪文のように捉えるのか、それとも、(南無阿弥陀仏を)はたらきとして受け入れるのか、ということです。後者は、『一心同体南無阿弥陀仏』ということです。そこには、(南無阿弥陀仏に対する)わたしの計らいは一切ありません。南無阿弥陀仏を「智る」身になりたいものです。
おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏