手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

アリから人間は見えない

80歳近い男性の方の思い出の話です。小学生のころの夏休みのことです。庭で、アリが行列をつくって物を運んでいるのを、おもしろくてジット見とれていたら、急に夕立が降って来ました。滝のような雨に屋根から落ちて来る雨水が、アリの行列に襲いかかって来ました。
慌てて逃げ惑うアリの姿が面白くて見ていたら、お母さんが出て来て、
「ジット見ているのではなく、溺れているアリさんを、助けて上げなさい」
と言われたそうです。
落ちていた木の葉で、そっとすくい上げるとアリは、手の方へはい上がって来ました。
「よかったね。アリさんにとっては、大洪水だろうから、渡りやすいように橋をかけてやってごらん」 
といわれて、そばに生えていたヨモギの茎を使って、橋をかけてやりました。
アリたちは、やがて白い卵をくわえて、橋を渡り始めました。
一緒に見ていたお母さんは、 
「アリさんは、ありがとうといったかい」
と聞かれました。
「なぜアリは、ありがとうと言わないかわかるかい。アリさんは、小さな虫の世界に生きているので、目の前の小さなものは見えるけれども、人間のような大きなものは見えないのだろうね。だから小さな葉っぱは見えても、それを持っている人間の姿は大きすぎて見えないのでしょう。ヨモギの茎の橋は見えても、人間がどんな気持ちで橋をかけてあげたかは、分からない。だから、アリは、人間にありがとうとは言わないんだよ」
と、お母さんは言われたそうです。
そして、
「私たちは人間の世界にいるから、アリは見えるが、アリからは人間は見えない。世界が違えば、こちらから見えても、向こうから見えないこともある。それと同じように、この世には仏さまの世界というのがあって、そこは人間の世界より、ずうっとずうっと大きい。だから、ほんとうの仏さまは私たちの目には見えない。けれど、仏さまの方からは、いつも見ていてくださるのだよ」
といわれたそうです。この子供のころの印象深い思い出が、第二次世界大戦での戦場でも、戦後の混乱の中でも、いつも心の底に残っていたそうです。
「み仏さまは、いつも見ていてくださる。 私から見えなくても。み仏さまは、いつも見ていてくださる。ナモアミダブツの橋を渡りなさい。」
この言葉にうながされて、お寺の本堂に座るようになりました。おかげさまで、仏さまの教えにあわせていただきました。どこにでもある、アリが溺れているのを見とれている少年にむかって、これだけ確かに話せる人は、めったにありません。今は亡きこの母は、ことによると、お浄土から来られた方ではないかと思えます。と。・・・・・・・
【妙念寺・電話法話原稿一覧 平成 9年8月14日〜  第238回より】
※本願寺新報(浄土真宗の新聞)の記事掲載文より
http://www2.saganet.ne.jp/namo/inahouwahyousi.htm#22nenn



「わたしの生死問題の解決」におきまして
自分の創造や考えをどんなに思い巡らわせてもなんの解決も進展もありません。なぜならば、いま・わたしが・ここで生きていること自体、わたしの持分の範疇を超えているからです。自分の都合がよい自分ワールドに依っているうちは、自分の狭い世界からの脱却はありえません。その殻を破るには、「南無阿弥陀仏に依るしかない」と、浄土真宗(の教え)では教えます。
つまり、いま・ここで・わたしが、南無阿弥陀仏のはたらきに気付くか・否か、ということです。
金子大栄 師(真宗大谷派僧侶・仏教思想家)は、「念仏は自我崩壊の音である」と表現しています。(わたしが)南無阿弥陀仏のはたらきに気付かされると、わたしが称える念仏(南無阿弥陀仏)は報恩感謝の念仏となって響きます。つまり、ここででてくるアリが、人間にありがとう、とお礼を言う関係になったということです。そんなことって想像できますかね?! アリが、人間にありがとう、ということはまず考えられません。しかしながら、わたしが阿弥陀さまにありがとう、と報恩感謝のお念仏を称えることはできるのです。まさに不可思議です。
おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏