手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

他力の信心

 信心とは、本来、思いや心をあらわす言葉ですから、私たち衆生の、信じて疑わない心のことをいっています。何を信じて疑わないかというと、阿弥陀仏の救いを信じて疑わないことであり、それはいい換えれば、浄土に往生できることを信じて疑わないということになります。問題は、私たち衆生が、何があっても揺るがない固い心を作り上げることが可能であろうか、というところにあります。自力の信心は、とても簡単なものではなさそうです。では、他力の信心とは、どのようなものでしょうか。
 「信」という語は、まこと、真実などの他に、伝達のための手段、たより、合図などの意味があります。手紙を「信書」といい、意思や情報を他人に伝えることを「通信」、隔たった間で一定の符号(手旗など)を用いて意思を通ずる方法を「信号(手旗信号)」といいます。メールを送ったり受け取ったりすることを「送信」「受信」ともいいます。「信」という言葉は、まず相手の思いや意思が存在して、それを受け取ることで成り立つ思い、心であるといえます。
 これを合わせて他力の信心を考えると、私が信じるより先に、衆生を救うと誓いをたてた阿弥陀仏があり、仏の思い、願いを受け取った私の心持ちを「信心」と表現していることがわかります。
 凡夫である私が、信じて疑わないといっても、それはあてになりません。ですが、救うはたらきは間違いないものであり、願いを受け取ったとき、間違いなく救われることに疑いを挟む余地はない、これを他力の信心と示されているのです。
【『安心決定鈔』を読む 佐々木隆晃 大法輪閤 P208,P209より】



「阿弥陀仏の救いを信じて疑わない」ということは、阿弥陀仏の救い(南無阿弥陀仏のはたらき)を敢えて確かめる必要がない、ということです。確かめようとしてもなにもありません。空っぽです。なにもない、空っぽといいましても、はたらきがあります。はたらきは、目に見えませんし、匂いもありません。モノとして受け取ることはできません。モノでしたら、そんなモノは崩れます。ニセモノです(笑)。
「阿弥陀仏の救いを信じて疑わない」ということは、言い換えますと、
南無阿弥陀仏のはたらきに気付かされ、南無阿弥陀と報恩感謝のお念仏を称える、ということです。
おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏



今年は大豊作です!(自宅のキウイ)