手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

本願他力に生きる人

 「他力の人」(本願他力に生きる人)というと、かならず依頼心の強い人、他人まかせの人といったレッテルが貼られたりもします。特に「他力本願」という語は横着者の代名詞のようにもなっています。ほとんどの辞典に「目的を達成するために他の助力をまつこと」などと記されています。このあたりから、自力は優れ、他力は劣っているというレベルでとらえています。(略)
 「他力をたのむ」とありますが、それはどういうことなのでしょうか。親鸞聖人は、「他力本願をたのみて自力をはなれたる、これを『唯心』といふ」(『唯信鈔文意』)と示しています。
 「信心」とは自力の心を離れて阿弥陀仏の教えに生きるということであるということです。少し詳しくいえば、「本願他力をたのむ」ということは、私自身の身、口、意の三業と自己の能力、社会的地位、学歴などを生きるうえでの根拠としないことです。これらの一切を人生のよりどころとせず、根拠とせずに、阿弥陀仏の教えを根拠として生きる者ということです。
【初めての歎異抄 山崎龍明 NHK出版 P91,P92より】



「他力本願」という言葉が、本来の意味で使用されるケースが非常に少なくなっています。辞書等をみましても、棚から牡丹餅的発想の意味で一番最初の説明として挙げられています。浄土真宗の教えが衰退していることを如実に物語っているのかもしれません。最近では葬式仏教という形式的な部分さえも無くなってきているように思います。非常に残念なことです。
南無阿弥陀仏のはたらきは、人を選びません。つまり、いつでも・どこでも・だれにでも平等にはたらいています。ここでいわれている自己の能力、社会的地位、学歴などの生きるうえでの根拠は全く要しない、ということです。南無阿弥陀仏のはたらきに気付かされない生活(人生)は、刹那主義的な人生ではないでしょうか。
「明日ありと思ふ心のあだ桜 夜半に嵐の吹かぬものかは」
タイムリミット、大丈夫でしょうか?!
おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏