手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

南無阿弥陀仏

 「南無阿弥陀仏」についてお話ししましょう。「南無阿弥陀仏」は、六字の名号(仏の名前)と呼ばれます。名号を称えるのが「称名」です。仏の名を称える、という形態は仏教の初期からありました。「南無」はナマス(namas)というサンスクリットの言葉に漢字を当てはめたもので、「帰命」「帰依」を意味します。要するに、「おまかせします」ということです。次の「阿弥陀」は、アミターバ(アミタ・アーバ、amitabha)とアミターユス(アミタ・アユース、amitayus)という言葉からできています。ミタが「限界」、アが「〜でない」という否定の意なので、アミタは「限界がない」「限りなし」となります。「アーバ」は光で、「アユース」は生命のことです。つまり、アミターバは「限りない光」、アミターユスは「限りない生命」です。
 そして最後の「仏」は、この場合は「はたらき」という意味になりますので、「南無阿弥陀仏」と称えることは、もともと「この世界に充ち満ちる限りない光と命のはたらきにおまかせします」という意となり、自分自身の生きる方向性を表す言葉なのです。
 ところが親鸞は、南無を「おまかせします」ではなく、「まかせてくれよ」と仏に呼ばれているのだと領解(りょうげ)します。自分の称えた「南無阿弥陀仏」が、仏の呼び声となって聞こえてくる、それが他力の念仏なのです。「称える」ことは、すなわち「聞くこと」である。「称名」は、すなはち「聞名(もんみょう)」である、ここが親鸞の念仏の本質です。「聞名」という思想は、『無量寿経』にも繰り返し出てきます。親鸞はそこに注目したのです。浄土真宗の教学では、「称即聞」「聞即信」―「称えること」「聞くこと」「信じること」の三つが一つであるとされています。浄土真宗の大きな特徴です。親鸞の念仏と信心を考える上でも重要です。
【NHK 100分de名著 歎異抄 釈 徹宗 NHKテキスト10月 P48〜P49より】



浄土真宗は、本願力回向の教え、ともいわれます。
方向は、「阿弥陀さまから私」であって、「私から阿弥陀さま」ではありません。
いうならば、川の流れに身を任せ、ぷかぷか浮いているようなものです。それに対し、逆流はしんどいですね(笑)。それ以前に、(私に)激しい流れに立ち向かうパワーは元々持ちあわせていません・・・・・・。
南無阿弥陀仏を単なる言葉ではなく、はたらきとして受けとりたいものです。
以下、このことを分かり易く表現した事例がありますので提示します。


講演の中で、重力の話に及び、私(横山)は皆さんにこう質問しました。
「実験で重力の加速度を計ることができますが、重力そのものを体得するには、どうすればよいでしょうか」
質問には誰も答えられません。そこで私は前に進み、高さ1メートルほどの講壇から下にドスンと飛び降りました。
「これが重力を体得するということです」
すると全員、拍手をしてくれまた。
【「唯識」という生き方 横山紘一 大法輪閤より抜粋】


重力を知る上で、主観的理解(身をもって)と客観的理解(計算式に入れて)では全く意味合いが違います。「南無阿弥陀仏」も然り、です。
おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏