手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

阿弥陀仏の本願を信じ念仏する

死そのものが何であるかというとは、科学ではわからないまったく別次元の事柄です。死が何かはじっさいに死んだ本人でないとわからないことです。生きている人はまだ死んだことがないのですから、死が何であるかは誰にもわからないことなのです。私もまだ死…

如来さまのお護りの中にある人生

どんなに辛い人生であろうが、往生が如来さまに約束されているということは、如来さまのお護りの中にある人生だということです。普段から仏法を聞いてこのことを知っている人は、どんなに悲しいことに出会っても、悲しみが軽くなります。悲しみは消えないけ…

阿弥陀さまが私に合わせてくれる

日頃は、これは悪いとか良いとかと言って生きている私たちです。「日ごろのこころ」というのは、何ごとにつけ、良いとか悪いとか言っている心のことです。こちらが良い、あちらは悪い、あんなことはしてはいけない、これをする方が良いと思う。そういうのが…

私とはなんぞや

人間の身体というものは、私たちがせいぜい百年のあいだ着ている着物です。しかし私自身というものは身体でなく魂です。 魂という言葉に誤解があったらいけませんからもう少し正確に言うと、この私というものの本質は何とも言いようのない謎なのです。私は人…

我を張る(自己中心)

(浄土真宗の)教えが理解できないと言うことは、たんに頭が悪いということじゃなくて、どこか心が素直じゃなく自己中心的だからでありましょう。これは特定の人だけのことじゃなくて、どこか心が素直じゃなくて、我々みんなにある抜きがたい傾向です。どう…

浄土真宗の精髄

私たちが如来様に抱かれるのはお浄土で抱かれるのじゃなくて、この娑婆で抱かれるんです。仏様にお会いするのは今生でお会いするのです。あの世へ行ったら仏さまが出て来られるのだろうと思っている人には、仏さまは決して出て来られません。今生で出てこな…

目覚め

たいていの現代人は人生を自分の小さな了見、つまり常識で生きています。人生とは自分が思っているような世界だと思い込んだままで一生を終わるのでしょう。しかし、これは真理に目覚めない生ですから地獄行きの人生です。誰が地獄に行くかと言うと、大きな…

念仏の衆生を摂取して捨てず

暗い世界を如来様の光が照らしてくださるのです。人には見せられないどころか、自分でもわからないはらわたの中まで如来の光がとどいている。それが「念仏の衆生を摂取して捨てず」です。〝仏様のみ名を称えるものを摂取して捨てないというたのもしい光明”そ…

お念仏の人

念仏の世界の不可思議とは、人間の分別的な知性では考えることができないということです。なぜかというと、人間の思考は「我」というものを中心にした思考であり、我の枠の外に原理的に出られないからです。しかし、ほんとうにナンマンダブを称えているとこ…

念仏(南無阿弥陀仏)で交流

私は子どもの頃のことを、覚えていますが、まだ小学生の頃、門徒の人が庫裏へ用事があって来られて、帰る時「ちょっと本堂にお礼をさせて頂きます」と言って帰られたことがよくありました。お礼ということはサンキューでしょ。いただいたものに対してありが…

仏法とは

「私はこの世をいかに楽しく明るく豊かに生きるかということのために仏法を聴いています」、もしこういうふうに思って来られたら、これは根本から考え直さなくてはいけないと思いますね。そうではなくて、いったいこの自分は何のためにこの世に生まれてきた…

私の思いや考えを超越した「広大無辺の世界」

仏法の世界というものはもともとそういう広大無辺の世界なんです。私の念仏とか、私の信心とかいう、そういう「私の」という我執の心を離れたところに仏法があるわけです。私だから今日はお寺へお参りしたというような気持ちがちょっとでも入っておりました…

私の生死問題

お経を死者たちに回向すれば、死者たちがその功徳を得て、成仏するだろうというように一般には考えられています。浄土真宗以外の宗派ではほとんどそうなっていて、そこに何の疑問を持たれないようです。これは、仏教が自分自身の問題ではなくなり、死者とい…

安心して死んで行けますか?

阿弥陀様の本願を信じている人は、阿弥陀様のお浄土に間違いなく生まれさせていただくんだから、安心しております。死んでいくことはそんなに嬉しくはないけれど、死ぬことには不安はありません。これはご信心の人の人生です。その人はもう生死の問題を解決…

南無阿弥陀仏という言葉

一切衆生がまちがいなく救われる方法はどこにあるか。それを見つけるために如来の壮大な思考があったのです。そして、それは自分が名号になることだと気付かれたのです。名前となって呼びかけたら、どんなに眠っている迷いの凡夫だって目を覚ます筈だという…

病気を楽しむ心境

正岡子規は自身は宗教嫌いであることを公言してきた俳人ですが、最後の病床で激しい痛みと戦っているときに、ある宗教家から届いた一通の手紙を読んで、それまでなかった安らぎを経験したことを『病床六尺』に記しています。 病気になったら、ただ病苦に耐え…

仏さまの教え

仏教を学ぶには分別的な知性がいちばん悪いのです。何が悪いったって分別がいちばん悪い、というのが仏さまの教えです。教義の概念を頭で理解してそれで事足れりとするのは仏教の精神に最も遠いわけです。言葉の意味を知的に分別してわかるだけでなく、その…

あわや本塁打?(捉え方の違い)

守備側の視点では、ピンチになるのでつかえます。攻撃側では、「もう少しで」本塁打という言い方になります。「ホームランになりそうな打球」という事実は、双方同じですが、その立場によって180度意味合いが違います。おもしろいものです。 では、「南無…

コロナを恐れる理由

毎日、コロナの報道が絶えません。なぜ、コロナの話題が絶えないのでしょうか。いかがでしょうか。それは、コロナ感染したその先に死が待ち構えている、という現実があるからではないでしょうか。しかし、その死(私が死ぬこと)において、完全にマスクされ…

わたし

わたしとはなんだろう 日常では、手品師さん スーパーに行けば、お客さん 病院に罹れば、患者さん 信心たまわれば、仏さま やっぱり、わたしは仏さま (がいいなぁ) ※金子みすゞ風に書いてみました(笑)

言葉の力

人間関係に上手な言葉は必要ありません。大切なのは「うまく話す」ことではなく「やさしく話す」ということです。「人が生まれたときには、実に口の中に斧が生じている。人は悪口を語って、その斧によって自分自身を斬るのである」 と仏典にもあるように、も…

月のひかり  🌺金子みすゞ(10)

一 月のひかりはお屋根から、 明るい街をのぞきます。 なにも知らない人たちは、 ひるまのやうに、たのしげに、 明るい街をあるきます。 月のひかりはそれを見て、 そつとためいきついてから、 誰も貰はぬ、たくさんの、 影を瓦にすててます。 それを知らな…

一寸先は?!

「一寸先は闇」ということは、突き詰めれば「今も闇」ということです。『一寸先も光』という身になりたいものです。それは、南無阿弥陀仏に依るしかありません。『南無阿弥陀仏』は、私の人生の支柱になっています!と言える人生でありたい、ものです。 おか…

Uターン ※還相の菩薩

また浄土に往生して、もう一度この俗世に還ってくる。そうしたら釈尊のように人々を救えるんだ、と親鸞はリアルに感じていたわけです。還相の菩薩となったら、あらゆる手段で人を救えるそうです。 山口県に深川倫雄(ふかがわりんゆう)〈※1932年~2012年、…

手品師  🌺金子みすゞ(9)

私はきのふ、決めたのよ、 いまに大きくなつたなら、 上手な手品師になることを。 きのふ見て來(き)た手品師は、 みるまに薔薇の花咲かせ、 ばらをお鳩に變(か)へてゐた。 【 金子みすゞ全集(JULA出版局)手品師:金子みすゞ】より これは、「手品師」…

光に向かう?!

コロナ禍真っ只中の現在を、真っ暗な長いトンネルな中にいる、というような表現で書かれている文章をよく目にします。こういう場合は、トンネルの先にあるであろう光に向かって突き進むという言い回しは、すごく的を射ています。 では「すでに、南無阿弥陀仏…

私の狭い了見でモノを見る

私達もどこまで未来を見通す眼をもっていますかね。今さえよければいいと往々にしてなっています。また「五欲」というのは目、耳、鼻、舌、そして身。いわゆる五感です。直接的に感覚できるものに貪着したのです。逆にいえば、日ごろ私達はそれ以外のことは…

阿弥陀さま ⇒ 私(私は受ける側)

私たちは普通、阿弥陀が救済の糸を垂らして、それを掴むのは私たちの努力ないし力であると考えます。しかしながら真宗においては、私たちがもともと自分に属していると考えるその力は、まったく自分たちのものではなく、阿弥陀から来ているというのです。私…

南無阿弥陀仏につつまれて

南無阿弥陀仏のある生活は、やっぱり、ほっとします。みな、1日1日、一生懸命生きているわけですが、南無阿弥陀仏を知らないで終える人生は無意味ですね。やっぱり、そう思います。南無阿弥陀仏があって本当によかったな、と思うこの頃です。 おかげさまで…

呼応する

阿弥陀さんが「南無阿弥陀仏」と称えよ!と、おっしゃられますので、 わたしは、「南無阿弥陀仏」と称えます。ただそれだけのことです。 至って自然なことであります~。そこに私の計らいなんぞ微塵もありません。 おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏