人間の身体というものは、私たちがせいぜい百年のあいだ着ている着物です。しかし私自身というものは身体でなく魂です。
魂という言葉に誤解があったらいけませんからもう少し正確に言うと、この私というものの本質は何とも言いようのない謎なのです。私は人間だと言っている、この私とはそもそも何者なのでしょう。「私は人間です」だけではすこしも答えになっていません。人間としての私は百年間で終わりますが、人間をやめたって私はやはり人間です。その私とはいったい何者かということの究明こそ仏教です。私とは何かと考えるといったところで、自分の我の心の中で考えておっても駄目です。そんな我のはからいをやめて仏様の教えを聞いたらわかるのです。
【『歎異抄』第十五条 即身成仏と信心決定 大峯 顯 百華苑 P52より】
この私の身体は、しばらくの借り物です。いずれ別れる(離れる)時がきます。大峯師は、人間の身体を着物といっています(笑)。的を射た表現です。この身体ともあとしばらくの付き合いです。私とはなんぞや、ここでは、「我のはからいをやめて仏様の教えを聞いたらわかります」と言われています。ここでいう仏様の教え、つまり、(私が)南無阿弥陀仏のはたらきに気付かせられると、私とはなんぞや、が知らされるのでした。
おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏
【追記】
約4年前にも、この部分をブログで書いていました(いま気付きました)。ポイントといいますか、心に響く言葉は変わりません~