手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

「南無阿弥陀仏」があって本当によかったー

次々と「馴染みの有名人」の訃報が報じられています。着実に時代は移り変わっています。昭和という時代も遠い過去のような。 私も歳をとったものだなー、と思うこの頃です。身近な人の死に際し、私の番も近いなあー、と思ったり。死に順番はありませんが、高…

「南無阿弥陀仏」という言葉

南無阿弥陀仏とは、阿弥陀さまが「われにまかせよ、必ず助ける、われをたのめ、必ず助ける」と私を呼んでくださるお言葉です。 その阿弥陀さまの仰せ(呼びかけ)を仰せの通り受けとられた方は、「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏(阿弥陀さま助けてくださってあ…

南無阿弥陀仏のなせる業(わざ)

生は死の始まりであるが、死もまた生の始まりであるということをわれわれは忘れてはならない。「往生」ということばは、文字通り〈往きて生まれる〉ということであるから単なる死を意味するものではない。したがって往生は、仏国土に往きて仏と生まれかわる…

小さな花(詩:榎本栄一)

人のいうことを ナルホドそうかと うなずけたら 何かそこには 小さな花が咲くようである 【妙好人紀行 浅沼義則 P183、P184より】 この詩(昭和の妙好人といわれている榎本栄一さんの詩)を、私なりに解釈しました。 「阿弥陀さまがおっしゃられて…

「聴く」と「聞く」

良寛はたくさんの漢詩を作っていますが、次のような話があります。 擔薪下翠岑 翠岑路不平 時息長松下 靜聞春禽聲 薪を背負って山を下っているが、山は険しく歩きにくい、そこで背の高い松の木陰で一休みすることにしたところ、耳を澄ますと春の鳥が鳴いてい…

「信心」といっても区別される

世間でいう信仰・信心は自分が神様などを信じるのですが、法然・親鸞の仏教の立場では、「まことの心」は人間にはありません。阿弥陀仏に与えられた行(=念仏)によって生まれるのです。 念仏を選択するかどうかをめぐって、当初はおおいに迷いもしますが…

法話(梯 實圓 和上)

最近、寝床につくときは、梯 和上の法話を聞きながら眠りにつきます。軽快な喋り口がとても心地よいのです。そして、気づかないうちに眠りについています(笑)。まるで音楽を聴くような感じです。なんでもかんでも知ってなさる梯 和上。教学力に驚愕してい…

法然が親鸞に伝えた最も大事な言葉

『歎異抄』には、「念仏とはどういうものか」ということを折に触れて、繰り返し説かれています。第十条にも重要な説明があるので、見てみましょう。 念仏には、無義(むぎ)をもて義とす。不可称(ふかしょう)・不可説(ふかせつ)・不可思議(ふかしぎ)…

はやいもので13年目(手品師ブログ)

今は亡き「あほうどりさん」に勧められて始めたこのブログも13年目となりました。開始日は、2010年3月22日となっています(驚)。そして、当然「おやじ化」も進んでいます(笑)。この期間もいろいろな出来事がありました。多くの出合いもありまし…

ひとりでも多くの人に

私の1日は、新聞3紙(地元紙、読売、毎日)に目を通すことから始まります。毎日約4時間、新聞からいろいろな情報を得ています。その中でも、読者投稿欄は好んで読んでいます。自分の思いや意見をどのように言葉(文章)としてまとめているか、とても参考…

とんぼ安心(あんじん)

読売新聞(青森版)に投稿しました。 「とんぼ安心」についてです。「浄土真宗の教え」に関心をもって頂ければうれしいです。 ※下記に、過去の「とんぼ安心」のリンクを貼りました。どうぞ~ 読売新聞(青森版)令和4年6月24日(金)付 tarou310.hatenab…

仏教に親しみを持つ最初の一歩

京都新聞 令和4年6月9日(木)付 「クロスワードパズル」が、仏教や歎異抄に関心を持つきっかけになることもあるでしょう。(仏教を聞くようになる)入口は、いろいろあるのだろうなぁ~、と今回の記事を読んで思いました。 Kさん、情報ありがとうござい…

仏教は論理というものを極めて大事にしている宗教

仏教は論理というものを極めて大事にしている宗教です。ひとつひとつ納得して次へ進むという、そういう道筋をたどるのが仏教であって、「わけが分からんことを信じ込め」ということは仏教では一才ありません。 「阿弥陀仏の本願」が何だかわからなくてもいい…

「経典の表現」の二面性

※第一願の成就文 「その国土には、須弥山(しゅみせん)および金剛鉄囲(こんごうてつち)、一切の諸山(しょせん)なく、また大海・小海・谿渠(けいご )・井谷(しょうこく)なし。仏の神力(じんりき)をもってのゆえに、見んと欲せばすなわち現ず。また…

ちょっと安心 ~他力本願という言葉~

他力本願(たりきほんがん) 【注】他の力で当てにする意味の比喩表現で使わない。 【注】浄土門で阿弥陀仏の本願によって救済されるの意。比喩の他の力を当てにする意味では使わない。 【記者ハンドブック新聞用字用語集 第14版 共同通信社より】 記者ハ…

歎異抄(たんにしょう)

「無宗教」を自認する人の多くは、「創唱宗教」に対して構えた姿勢でいる、いわば「創唱宗教嫌い」です。その背景には、オウム真理教などの影響により、特定の宗教や宗派に経済的に搾取(さくしゅ)されたくない、また自分の考えを揺さぶられたり束縛された…

お釈迦さま(釈尊)の功績

衣食住が満たされることだけで人生が豊かになるのではないという考え方は、仏教の根幹に関わります。仏教は、王子であった釈尊が、地位も名誉も財産もすべて捨てて出家したことに始まります。釈尊が出家したのは、地位や名誉や財産など、私たちが求めて止ま…

念仏のみぞまこと

親鸞聖人にとって、変わりゆく私をどこまでも支えるものは何であったのか。それは「弥陀の本願」です。親鸞聖人は『歎異抄』の中で、 「煩悩具足(ぼんのうぐそく)の凡夫(ぼんぶ)、火宅無常(かたくむじょう)の世 界は、よろづのこと、みなもつてそらご…

手本でなく見本というスタンス

明治時代の金沢に、高光大船(たかみつだいせん)という人がいました。清沢満之(きよざわまんし)という北陸の浄土真宗の重鎮の弟子のひとりです。清沢満之は、明治の宗門改革の立役者でした。 高光大船は、講演の引く手あまたでしてが、いくら頼まれても行…

「浄土教の思想」に注目しませんか⁉️

われわれは誰でも、本当は、何一つ頼りになるものを持たないところで生きています。家族をたよりにしているといっても、家族はいつ死ぬかもしれません。会社や組織を頼みにしているといっても、そういう状態は永続するとはかぎりません。私たちの財産や地位…

如来さまの言葉を聞くこととは

昨年末私の近くのご門徒が、何人かの団体でバスでご本山へ念仏奉仕団に行った時のことです。あるお婆さんがバスに乗り遅れたのです。休憩の時にトイレに行って帰ってきたらバスが出てしまっていました。実際はバスは待っていたのですが、お婆さんは置いてき…

言葉に対する仏教の三つの態度

仏教においても「仏説」「仏語」「真語」「如実の言」などの言葉があるように、言葉は仏法の真理があらわれる場所として考えられている。しかし仏教の場合は、大きくいって言葉に対する三つの異なった態度が見られるようである。第一は、仏典の概念語を解読…

死もまた出発点

昔ヒットした歌で、石橋正次の『終着駅は始発駅』という曲があるんですが、このタイトル、なんとなく面白いですね。終着駅が始発駅なら、死もまた出発点かもしれない。 【うらやましい死に方 P217 五木寛之 文藝春秋より】 この一節を読んでいまして。 「死…

南無阿弥陀仏

『唯信鈔文意』では、「仏性すなわち法性なり、法性すなわち法身なり。法身はいろもなし、かたちもましまさず。しかれば、こころもおよばれず、ことばもたえたり」(『聖典』709-710)と言われている。存在の真実にして不変の本性はいろもかたちもなく、われ…

阿弥陀さまは知っておられる(阿弥陀さまの視点)

跳べることオタマジャクシはまだ知らぬ 神奈川・カトンボ 【毎日新聞12月26日(日)付 仲畑流 万能川柳より】 いつも楽しみにしている「仲畑流 万能川柳(毎日新聞)」です。 この川柳をみたとき、阿弥陀さまと私(オタマジャクシ)の関係が重なりました…

臨終やからと騒ぐことない 

平成8年3月16日、母やよがリウマチによる多臓器不全のため亡くなった。享年81。 数年前から、関節の変形で歩行ができなくなって入院していた。週の半ばと週末には、母を見にいくことが習慣になっていた。 老衰も加わり、モルヒネと輸血もそろそろ限界…

私の生死問題

今年も残すところわずかとなりました。「私の生死問題」は、年の瀬であろうがなかろうが関係はありません。1分、1秒、刻々と死に向かって突き進んでいる現実があります。今一度、「私の生死問題」についてよくよく考えてみたいものです。 新聞投稿(読売新…

「南無阿弥陀仏」という言葉

「南無阿弥陀仏も人間がいっている言葉ではないか」といっているようでは、これは南無阿弥陀仏を信じていないことになります。南無阿弥陀仏を信じていないということは、仏を信じていないということです。仏を信じていないということは、自分の力を信じてい…

阿弥陀仏の本願を信じ念仏する

死そのものが何であるかというとは、科学ではわからないまったく別次元の事柄です。死が何かはじっさいに死んだ本人でないとわからないことです。生きている人はまだ死んだことがないのですから、死が何であるかは誰にもわからないことなのです。私もまだ死…

如来さまのお護りの中にある人生

どんなに辛い人生であろうが、往生が如来さまに約束されているということは、如来さまのお護りの中にある人生だということです。普段から仏法を聞いてこのことを知っている人は、どんなに悲しいことに出会っても、悲しみが軽くなります。悲しみは消えないけ…