死そのものが何であるかというとは、科学ではわからないまったく別次元の事柄です。死が何かはじっさいに死んだ本人でないとわからないことです。生きている人はまだ死んだことがないのですから、死が何であるかは誰にもわからないことなのです。私もまだ死んでいないのでわかりません。人間にはわからないこの死を受け容れることができる道が本願を信じ念仏する道であります、あるいは広くいって真の宗教というものはこの不可解な死というものの究明です。どんなに進歩した医学や生理学でもそういう死そのものとぢかに向き合うことはできないのです。
【『歎異抄』後序 宇宙の中の自己の救い 大峯 顯 P22、P23】
下記、ズバリいわれています!
「人間にはわからないこの死を受け容れることができる道が(阿弥陀仏の)本願を信じ念仏する道であります」と。
医学や生理学の持ち分は、死ぬまでのことです。いかに健康で長生きさせるかが目的となっています。死自体(生死問題)の持ち分は、真の宗教とあります。真の宗教、つまり浄土真宗の教えに生死問題を解決する道がある、ということです。数ある宗教の中で、浄土真宗の教えに出遇い、阿弥陀仏の本願を信じ念仏する身になる。そうなると、死そのものとぢかに向きえる身となる。といわれています。
おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏