手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

お念仏の人


念仏の世界の不可思議とは、人間の分別的な知性では考えることができないということです。なぜかというと、人間の思考は「我」というものを中心にした思考であり、我の枠の外に原理的に出られないからです。しかし、ほんとうにナンマンダブを称えているところには我なんてもうないのです。ほんとうにナンマンダブをよろこんでいる人には我はありません。そのとき、我はもう如来さまの無我の心、慈悲の心に貫通され融かされているんです。我のはからいがあるかぎり如来さまは遠くにあって私どもと対立しています。私と如来さまとはどこまでも別々ですから、私は独りぼっちで生き、独りぼっちで死ぬことになります。私はたった一人で棺桶に入るんで、如来さまはその外に立っていらっしゃるだけで、ちっとも助けて下さらないということになります。これでは地獄行きです。如来さまは外に立っていらっしゃるが、私は一人で菊の花と一緒にお棺の中に入っているだけで、中には誰ひとり入ってくれない。私はたった独りぼっちだ。我の立場に止まっているかぎり当然そういうことになります。しかし、如来さまのお慈悲のことをふだんからお聞きになっているお念仏の人は、「ああ、私はもうこの世で、我というものがない広大無辺な仏さまの慈悲に生かされているんだ」ということをわからしてもらえるでしょう。そういうお念仏の世界は自分の力で称えたり、人間の頭で説明したり、自分の頭で分別したりできないものであるにもかかわらず、決して遠いところのことではなく、私たちがその中で現にいま生きている世界のことなのです。

【『歎異抄』第十条 自然の道理 大峯 顯 P20、P21より】

 

f:id:tarou310:20210912162441p:plain

私の計らい(私の思いや考え)を超越した「念仏の世界」。なんとか自分の力で、理解しようと思ったところで理解のしようがありません。理屈なしに「南無阿弥陀仏」と口から溢れでる念仏。なんとありがたいことでしょう。「南無阿弥陀仏」を盾にすることはお門違いです。この今も、そしてこれからも、阿弥陀さまと一緒の人のことを、ここで「お念仏の人」といわれています。

おかげさまで 今日 南無阿弥陀仏

 

f:id:tarou310:20210922030158j:plain