手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

2019-01-01から1年間の記事一覧

現生の利益と現世の利益

私たちは、美しい花を見ると、その花の美しさをほめるけれども、花を咲かせている根っこということはすこしも思わないことがあります。現世の利益というのは、美しく咲いている花です。それに対して現生の利益というのは、美しい花を咲かせている根っこでし…

往生(おうじょう)

人間は、つねに畏怖心が(いふしん)の去らぬものであります。人生の迷路のなかで絶望感を抱くときもさることながら、人間にとって何よりも大きな恐れは、死なねばならぬという厳粛な事実です。 そのような状況を「困った」とか「死ぬ」という即物的な表現を…

受け取り方の違い

雨と聞くと、思い出す話がひとつあります。昔あるテレビキャスターが、六月の梅雨の時期に、週末前の放送で「週末は雨が降らないといいですね」といって番組を終えました。すると、「農家では雨が降らないと困るんだ」と抗議電話がかかってきた。ことほどさ…

次の一瞬に惑いがない

真実証が成就するのはなにかというと、正定聚に住するということが成り立つことだと、本当の救いとはなにかというと、正定聚に住するということにあるのだと言われるのです。 正定聚に住するとはどういうことかと言えば、一つには曽我量深先生が「次の一瞬に…

仏性未来

仏教には 「仏性未来 」という言葉があり 、親鸞聖人が 『教行信証 』の中に引用しておられます 。その場合の未来というのはなにかといったら 、どこまで行っても未来なのです 。やがて現在になるというものではありません 。どこまで行ったとしても 、それ…

なんでもわかっているつもりの私

無明ということは決してなにもわからないということではありません 。そうではなく 、なんでもわかっているつもりになっている 、なんでもわかったこととしている心です 。仏法とはこういうものだ 、念仏とはこういうものだと 、いつの間にか自分の物差しで…

目印のない荒野

目印のない荒野、そういうところを歩く時だけではない。私たちがこの人生を歩んでいくときに、自分の感覚だけを頼りとして生きていきますと、自分では気のつかないずれを、いつのまにか重ねてしまうのです。そして気がついたら、とんでもないところにきてし…

わたしのお金

わたしの思うように使えるお金を、わたしのお金というのです。たとえ私の背広のポケットに入れていても、預かったお金ならば私のところにあるのだけれども、私のものとはいえないわけです。そうしてみますと、私のいのち、私のいのちといっているけれども、…

名のり

名のりとは「〜を引き受けた」であり、「〜してあげる」ではありません。決して上から目線でない、ということです。同じ目線で一緒に仏道を歩んでいこう、というスタンスが伝わります。その(名のりという)言葉に、阿弥陀さまの「あなたを救う!」という固…

目的地

人はなぜ迷うのか?それは、目的地があるから。 先日の常例布教(築地本願寺)においての言葉でした。「たしかに、なるほど! 」と思いました。以下、私なりに、その解釈を深掘りしてみました。目的地があるから迷う、ということは、目的地がなければ迷わな…

阿弥陀さまの救いと煩悩

念仏もうしそうらえども 、踊躍歓喜のこころおろそかにそうろうこと 、またいそぎ浄土へまいりたきこころのそうらわぬは 、いかにとそうろうべきことにてそうろうやらん 」と 、もうしいれてそうらいしかば 、 「親鸞もこの不審ありつるに 、唯円房おなじこ…

基準のない世界

仏さまの世界には基準(という概念)がない、つまりみな平等な世界といわれます。では、人間の世界はいかがでしょうか?何事にも基準がつきまといます。その基準によって、人の価値や序列が決まる世界ともいえるのではないでしょうか。南無阿弥陀仏のはたら…

お念仏

お念仏は、「自力をはなれたるゆえに 」といわれるように 、念仏もうす人間のがわからの 、何らかの効果をねらってする 「善 」でもなければ 、手柄としての 「行 」でもありません 。 「非行非善 」といわれるように 、念仏は行者のためには 「非なる行であ…

仏教でいう自力(じりき)について

「自力」とは、一般に用いられている〈自分の力〉とか〈自然に備わった力〉のみを意味するものではなく、仏教で用いられる場合は〈自分の力で修行して仏果をえようとするはたらき〉をいうのです。いわば、いかにきびしい難行苦行を強いられようとも、悟りを…

言葉の力

言葉で物事をいかにわかりやすく伝えるか、これは私のテーマです。南無阿弥陀仏のことだけでなく、日常生活の出来事においても意識するようにしています。地元紙に投稿をはじめて1年4ヶ月が過ぎました。いままで採用された投稿記事をまとめました。 下記、…

念仏に満ち足りる

これまでいとい嫌って避けていたことがらに対しても 、避ける必要がなくなり 、そのものに真正面から向かいあって 、それをわが身に受けとって 、そこに滋味を感じていくことができる 、この 「行 」が念仏というものだ 、といわれるのであります 。だから念…

私のモノサシ(判断基準)

善悪の考えは、考える人の程度で違う。ざっぱに考えると善悪ということは皆わかっておるようであるが、細かに考えると、或る人の考えておる善悪と、他の人の考えておる善悪とは違う。嫁と姑の善悪、親爺と子供の善悪、若い人と年取った人の善悪、みな違うの…

不思議な世界

念仏者の人生は 「無碍の一道 」だ 、といわれております 。このおことばは 、念仏もうす身になればその人の一生にはさわりのない平坦な人生が展開する 、ということでしょうか 。おそらくそうではありますまい 。たとえ念仏もうす身になっても 、人間である…

宗教を信じている人

自分が信じている宗教は正しいのだから、ひとりでも多くの人に、ある意味押し付けても、その人のため、という理屈はわかるのですが、なかなか難しいところです。妻や娘にも、南無阿弥陀仏を聞いてほしいのですが、こればかりは縁としか思えないこともありま…

落とし穴

私たちが念仏もうす身になることができたのは 、しんじつには 、人間からの努力によることではなくて 、全く一方的に 、如来に呼び覚まされての念仏だったということです 。お念仏の真実性が私を呼ぶのです 。私が念仏を選びとり 、私が念仏をとおとんでいる…

「わたし大好き人間」の弊害

人情の入らぬ教え禅宗とか天台宗などの聖道門といわれる仏教が 、知恵の宗教 、行の宗教といわれるのに対して 、わたしたちのお念仏の教えは 、慈悲の教え 、情の宗教だといわれております 。それにちがいないのですが 、情の宗教といえば 、何か人間の私情…

発想の転換

ごみ拾いも発想の転換といいますか、心のもちようで楽しくなるものです。 南無阿弥陀仏のはたらきに気付く、ということ関してはいかがでしょうか。自分の都合のよいようにカスタマイズしようとしてもできるはずがありません。南無阿弥陀仏のはたらきは、人智…

弥陀の光かがやく

はてしなく澄めるみ空に我を呼ぶみ声を尊く仰ぎてぞ聞くさらばなり苔の下にてわれ待たむ大和島根に花薫るとき今ははや心にかかる雲もなし心豊かに西へぞ急ぐ日も月も蛍の光さながら行く手に弥陀の光かがやく これらの歌では、「はてしなく空は澄んで」おり、…

阿弥陀さまとわたし

自己と言いますか、自分が意識している自分というのは、必ずしも本当の自分での姿ではないのです。だいたいうぬぼれと言いますか、まず自分の意識している自分というのは、どこか足が宙に浮いている。ですから、自分のことは自分が一番よく知っているという…

おおせそうらいき(歎異抄第三章の言葉)

私たちはこの(歎異抄)第三章の教えについては特に心をこめて聞かせていただかなければなりませんが 、それに先立って 、まず私はこの章と後の第十章にだけ用いられているひとつのことばに注目したいと思います 。それはこの章の結びの 「おおせそうらいき …

感応道交

仏のお心は大悲心だといわれます 。大悲心とは 「大いなる悲しみの心 」です 。何を仏は悲しまれるのか 。仏の悲しみとは 、私の現在の生きざまを 、あるべきすがたでないと感ずる痛みの心です 。このあるべき状況にない私を 、あるべき状態にあらしめようと…

人間の本質

京人形の白い顔が汚れたと 、水でふけばふくほど 、下地が見えて穢くなる 。私も穢い心が照らし出されて 、よごれた物ばかり見えてくる 。南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏【松並松五郎念佛語録 響流選書より】 京人形を通して、人間の本質をうまく表現されています…

熟れた柿

一本の柿の木に育っても 、花のままで散るのもあれば 、小さいまま落ちるのも 、渋の残るのもある 。うれて人の口に入った柿が 、柿ではないでしょうか 。南無阿弥陀仏【松並松五郎念佛語録 響流選書より】 一本の柿の木ですが、それぞれの柿にもドラマがあ…

至れり尽くせり

下々の下の下々の下の下に南無阿弥陀仏【松並松五郎念佛語録 響流選書より】 南無阿弥陀仏のはたらきは、隈なく隅々まではたらいているということです。漏れはありません。チカラ漲るといいますか、南無阿弥陀仏があって本当によかったなぁ〜、と素直に思い…

距離感

人それぞれに距離感というものがあろうかと思います。自分のテリトリー、いうならば、縄張りということです。自分の縄張りに踏み込まれますとストレスを感じます。人との繋がりも距離感を意識して生活しているのではないでしょうか。家族との繋がりをはじめ…