手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

私のモノサシ(判断基準)

善悪の考えは、考える人の程度で違う。ざっぱに考えると善悪ということは皆わかっておるようであるが、細かに考えると、或る人の考えておる善悪と、他の人の考えておる善悪とは違う。嫁と姑の善悪、親爺と子供の善悪、若い人と年取った人の善悪、みな違うのである。    (略)
我々の世界に、決まった善、決まった悪というものを分けておることは、なかなかつらいことである。自分のことだと厳格には出来んが、人のことだと善いとか悪いとか言う。が、自分の上に当てはめてくるとわからなくなってくる。普通に善悪というと多くは人を裁いておるときであるようだ。向うのものが自分に適応しておれば善、適応せねば悪としておる。自分で動かんで自分の物差で善悪を決める。そうするとやはり善悪の源は自分なのだ。自分の立てた善悪の標準に何でもそこへ当てはめようとする苦しみが起る。足袋でも靴でも自分に合わんものを履くと痛い。そこに無理がある。
【正信偈の講話 暁烏 敏 法蔵館 P80より】

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私の曖昧な判断基準で善悪を定め、そこに自分をカスタマイズさせようと努力したところで進展はあるのでしょうか?! 

私の都合で設定された基準を拠りどころにしたところで残るのは虚しさしかないのではないでしょうか。拠りどころは阿弥陀さま、これに限ります。

おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏

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