わたしの思うように使えるお金を、わたしのお金というのです。たとえ私の背広のポケットに入れていても、預かったお金ならば私のところにあるのだけれども、私のものとはいえないわけです。そうしてみますと、私のいのち、私のいのちといっているけれども、このいのちを私の思いどおりにできるのだろうかということがあるがわけです。
【真宗門徒の生活に自信を持とう 宮城 顗 法蔵館 P33より】
南無阿弥陀仏のはたらきに気づく、ということも同じようなことがいえるのではないでしょうか。つまり、南無阿弥陀仏につつまれて生かされている身でありながら、そのはたらきに気づかないひとは、お金を懐に入れているのに、自分のものになっていない、ということです。南無阿弥陀仏のはたらきをお金にたとえるのは、怒られるかもしれませんが、わかりやすい表現だと思います。
おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏