手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

感応道交

 仏のお心は大悲心だといわれます 。大悲心とは 「大いなる悲しみの心 」です 。何を仏は悲しまれるのか 。仏の悲しみとは 、私の現在の生きざまを 、あるべきすがたでないと感ずる痛みの心です 。このあるべき状況にない私を 、あるべき状態にあらしめようとする仏の大いなる願いが 、絶対の 「法 」として私に呼びかけておられるのが 、 「南無阿弥陀仏 、と弥陀たのめ 」という 「如来の本願 」です 。
 人間のわずらいなやみを越えた 、永遠の安らぎの世界に招かれるのです 。その世界は 、今の私の生きざまとは地つづきではありません 。この私をどうとりつくろっても至りうる世界ではないのです 。両者のあいだには絶対の断絶があります 。その断絶は 「越 」えられなければなりません 。それはただ 、呼びたもう仏の願心に 「感応 」し 、南無阿弥陀仏と応ずる 「呼応 」の心によってのみです 。この感応 ・呼応を(親鸞)聖人は 「信心 」といわれるのです 。
【歎異抄講話(上)(御堂電子叢書) 寺田 正勝 響流書房より】

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 浄土真宗でいう「信心」とは、

『呼びたもう仏の願心に 「感応 」し 、南無阿弥陀仏と応ずる 「呼応 」の心によってのみです 。この感応 ・呼応を(親鸞)聖人は 「信心 」といわれるのです。』

とあります。

 つまり、感応道交ということです。阿弥陀さまと私が南無阿弥陀仏をもってして会話が成立します。
おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏


感応道交(かんのうどうこう)
仏と人、また教えるものと教えられるものとの気持ちが通いあうこと。衆生の機応と仏の応化とが相通じて融合すること。

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