これまでいとい嫌って避けていたことがらに対しても 、避ける必要がなくなり 、そのものに真正面から向かいあって 、それをわが身に受けとって 、そこに滋味を感じていくことができる 、この 「行 」が念仏というものだ 、といわれるのであります 。だから念仏もうす身になれば 、他の善もほしからず悪もおそれなし 、と念仏ひとつに満ち足り 、わが身のところに安堵する人生です 。
このようにして 、念仏は人間にとっては行でもなければ善でもない 、といわれることは 、もちろん念仏はもうさなくてもいいとか 、念仏のもうされる日まで漫然と待っていなければならぬとかいうことでは全くありません 。念仏もうす身にしていただかなければ 、この自分の身に安らぐことはできません 。ただただ 、お念仏に親しませていただく日々であります 。
【歎異抄講話(上) (御堂電子叢書) 寺田 正勝 響流書房より】
お釈迦さまが、この地球上にお生まれになり悟りを開かれてから2千数百年。時空を超えて、南無阿弥陀仏が私に届けられているという現実に感謝しかありません。念仏(南無阿弥陀仏)もうす人生に悔いなし。
おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏