手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

阿弥陀さまとわたし

 自己と言いますか、自分が意識している自分というのは、必ずしも本当の自分での姿ではないのです。だいたいうぬぼれと言いますか、まず自分の意識している自分というのは、どこか足が宙に浮いている。ですから、自分のことは自分が一番よく知っているということはけっしてない。かえって人に見られている私のほうが、具体的だということがあります。自意識で捉えている自己よりも、人が受け止めている自己のほうが、具体的であり真実に近い場合が多い。
 それからもうひとつ、他己という、他者として見いだした自己ということがある。つまり自己の内容として見いだした他者です。他を自己として見いだす。十方衆生を、自己として見いだしたのが阿弥陀仏。阿弥陀仏にとって十方衆生は、単なる他者ではない他己です。ですから、十方衆生が救われないかぎり、我また仏にならずと言われる。
【〝このことひとつ〟という歩み 唯信鈔に聞く 宮城 顗 P54,P55より】

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ここで、十方衆生を自己として見いだしたのが阿弥陀仏、とあります。
ですので、わたしが阿弥陀さまの南無阿弥陀仏のはたらきに気付かされますと、
南無阿弥陀仏が私、わたしが南無阿弥陀仏、となるのですね。
「助けてあることを聞くばかり」とか「助かってみれば助かることもいらなかった」といわれた浄土真宗の諸先輩の言葉に納得させられます。
おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏

 

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