手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

仏教でいう自力(じりき)について

  「自力」とは、一般に用いられている〈自分の力〉とか〈自然に備わった力〉のみを意味するものではなく、仏教で用いられる場合は〈自分の力で修行して仏果をえようとするはたらき〉をいうのです。いわば、いかにきびしい難行苦行を強いられようとも、悟りを得るまで精進を怠らない聖者の道を指すのです。煩悩のしがらみから逃れ、恩愛の絆を断ちきるためには、その温床となる家庭を捨て、あらゆる欲望とたたかい、遂にはいのちさえも決して執着を持たないことが前提となります。
 たしかに仏教本来の立場からすれば、みずから菩提心を発して仏と成るべき道を求め続けるのが常道であります。しかし末法濁世にあっては、煩悩の繋縛(けばく)から逃れるすべもなく、みずからの苦悩や罪業をみずからの手で脱却して仏果を得ることなどは、とても不可能なことです。
                                                             (略)
 自力、他力という語は、本来、この私が仏と成るには、何によるのかというところで語られるべきものです。「自力無効」ということばも、仏の願力ひとつで救われる限り、私たちのはからいはまったく不必要であるということであって、私たちの日暮らしにおける〈努力〉というものを否定する意味ではないのです。
【ことば-仏教語のこころ- 藤澤 量正 本願寺出版 P95~P97より】

 

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 ここでは、仏教で用いる場合の「自力」について解説されています。簡単にいいますと、自分の力で厳しい修行をして悟りを開く、ということです。しかしながら、「末法濁世」といわれているこの時代におきしては、自力で悟りを開くことは不可能である、とお釈迦さまは断言しておられます。お釈迦さま、つまり仏さまがそのように仰っておられますので間違いはありません。つまり、自分の力に固執してもなんの進展もない、ということです。
 「末法濁世」のこの時代においては、阿弥陀さまに依るしか(私の)真の救いはない、ということです。日々の生活において「努力する」ことは非常に大事なことではありますが、『阿弥陀さまの救い』という視点からみますと、「努力する」という言葉は馴染まないです。
おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏

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