一本の柿の木に育っても 、花のままで散るのもあれば 、小さいまま落ちるのも 、渋の残るのもある 。うれて人の口に入った柿が 、柿ではないでしょうか 。南無阿弥陀仏
【松並松五郎念佛語録 響流選書より】
一本の柿の木ですが、それぞれの柿にもドラマがあります。ここで、柿を人に置き換えてみますといかがでしょう。成熟した柿(南無阿弥陀仏のはたらきに気付かせれる身)になるには色々な条件がうまく揃ってのことです。残念ながら、成熟せずに落ちっていった柿(南無阿弥陀仏のはたらきに気付くことなく一生を終えた人)も遅かれ早かれ成熟した柿(南無阿弥陀仏のはたらきに気付く身)になるのでしょう。それは、すべての柿(人)に、今も阿弥陀さまのお育てに授かっているからです。一本の柿の木を通して、人それぞれの人生を喩えているように思いました。このいま、熟れた柿(阿弥陀さまにおまかせの身)になりたいものです。
おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏