私たちはこの(歎異抄)第三章の教えについては特に心をこめて聞かせていただかなければなりませんが 、それに先立って 、まず私はこの章と後の第十章にだけ用いられているひとつのことばに注目したいと思います 。それはこの章の結びの 「おおせそうらいき 」という何でもないような一語のもつ章味についてです 。周知のようにこの 『歎異抄 』の前十章は 、(親鸞)聖人のおことばの 「耳の底にとどまるところ 」を 、唯円坊がそのままに記したもので 、一章一章 、 「 … …と云々 」で結ばれているのですが 、この第三章は 「おおせそうらいき 」というおことばで終わっているのです 。それはいったいなぜでしょうか 。このことは古くから多くの人に注意せられてきております 。大部分の方は 「(親鸞)聖人がこのようにおおせられた 」という唯円坊のおことばだと受けとられております 。しかし 、そうではなくて 「おおせそうらいき 」までが(親鸞)聖人のおことばだ 、とする解釈もあります 。後者の考えに立てば 、最後の 「善人だにこそ往生すれ 、まして悪人は 」ということばは聖人が誰かから 、おそらく法然上人からお聞きしたことばだということになるわけです 。このように 、この 「おおせそうらいき 」という一語を誰のことばとするかによって 、「善人なおもって往生をとぐ 、いわんや悪人をや 」というたぐいまれな 、一宗を根底から左右するような重要な教えが 、親鸞聖人によるものか法然上人のおことばであるか 、がわかれることになるのです 。それほど 、この一語は見のがしてはならない大事な意味をもつおことばです 。
【歎異抄講話(上) 寺田正勝 響流書房より】
解釈の立場によって、意味合いや内容がコロッと変わってしまうケースは多いのではないでしょうか。多角的な立場に立ちながら解釈していく姿勢はとても大事なことだと思います。とりわけ、南無阿弥陀仏のことに関しましては、細心の注意を払う必要があります。
おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏