手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

次の一瞬に惑いがない

 真実証が成就するのはなにかというと、正定聚に住するということが成り立つことだと、本当の救いとはなにかというと、正定聚に住するということにあるのだと言われるのです。
 正定聚に住するとはどういうことかと言えば、一つには曽我量深先生が「次の一瞬に惑(まど)いがないことだ」と示されています。私たちは、いつも次の一瞬が気になるのです。どうなるのかと不安を持つのです。なかなか今というところに生き切れないで、いつも次の一瞬を心配しています。将来はどうなるのだろう、老後はどうなるのだろうと、今の今というところには立てません。さらに言えば、もっと身近に、明日のことを心配したり、いろいろと次の一瞬に惑いがあるのです。
 それに対して、正定聚に住するということは、次の一瞬に惑いがないこと、今というものに本当に生き切れることだと、こういう言い方をされています。しかもその時には、この「聚」ということがあると示されています。これは「ともがら」です。「俺一人、もう決まった」ということではないのです。人間として次の一瞬に戸惑いがない時には、そこには必ず周りの人々と共にこの世界があったということです。その世界に生き切っていけるということです。
【浄土真宗の教え -真実の教・行・信・証- 宮城 顗 真宗文庫より】

 

正定聚(しょうじょうじゅ)
必ずさとりを開いて仏になることが正(まさ)しく定まっているともがらのこと。
※ 浄土真宗辞典P353より

 

曽我 量深(そが りょうじん)
1875年(明治8年)9月5日 - 1971年(昭和46年)6月20日)は、日本の明治~昭和期に活躍した真宗大谷派僧侶、仏教思想家。真宗大谷派講師、大谷大学学長、同大学名誉教授。旧姓、富岡。法名、「無極院釋量深」。
伝統的な解釈のもとに継承されてきた仏教・真宗の教学・信仰を、幅広い視野と深い信念とによって受け止め直し、近代思想界・信仰界に開放した功績は顕著で、近代仏教思想史の展開上、大きな足跡を残した。
※ウイキペディアより

 

f:id:tarou310:20190131165006j:plain

正定聚に住するということ、つまり、このいま、南無阿弥陀仏のはたらきに気付かされている(ひと)、ということです。そういう身になったひとは「次の一瞬に惑いがない」と、曽我量深 師は言っておられます。その言葉は、以前ここで紹介しました「一寸先も光」という言葉(下記リンクあり)とほぼ合致します。個人的には「次の一瞬に惑いがない」という師のことばをもう少し掘り下げまして、一文字加えてみました。「次の一瞬に惑いがない」   これでいかがでしょうか(「一寸先も光」と合致します)。「も」という一文字が入ることで、このいまも(生死問題において)惑いがない、ということがよりクリアになります。
おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏

f:id:tarou310:20190804175706j:plain

 

tarou310.hatenablog.com