手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

往生(おうじょう)

 人間は、つねに畏怖心が(いふしん)の去らぬものであります。人生の迷路のなかで絶望感を抱くときもさることながら、人間にとって何よりも大きな恐れは、死なねばならぬという厳粛な事実です。
 そのような状況を「困った」とか「死ぬ」という即物的な表現を避けて、いつしか「往生」ということばを用いるようになったのは、恐らく浄土教が弘まるにつれて、仏の浄土に生まれるためには、死という関門を通らねばならぬという状況から、人々は、往生という美しいひびきを持つことばでそれを表現しようとしたとも考えられます。この世俗的な用例が『仮名草子(かなぞうし)』の上にも見られ、浄瑠璃や歌舞伎の世界まで及び、現代の日常用語にも、いまもってその例を多く見ることができます。
 たとえば、死にぎわを「往生ぎわ」よ言い、いさぎよく罪に服さぬことを「往生ぎわが悪い」と称し、無理に押しつられて止むなく承知することを「無理往生」と表現し、果ては身動きが取れぬ状態を「立往生」と語るなど、今も私たちの周辺でこれらのことばは生きています。
 しかし、本来のことばは、現世を去って仏の浄土に往(ゆ)いて生まれることを意味しています。取りわけ浄土真宗においては、浄土往生を抜いてその教えを語ることはできないほどに重要な意味を持っていることを思えば、私たちにとって、確かな理解を持つことは極めて大事なことです。
【ことば -仏教語のこころ- 藤澤量正 本願寺出版 P123,P124より】

 

f:id:tarou310:20190131165006j:plain

「死ぬこと」を往生という言葉で表現することで、「死ぬこと」の不安や恐怖を和らげているのでしょう。「(私が)死ぬこと」について、真正面から逃げることなく考えていきたいものです。裏を返せば「わたしが、いま、ここで、生きている」ことを考える、ということです。死を(往生という言葉で)マスクしたり、美化したところで、遅かれ早かれ(私は)死んでいくという現実は何も変わりません。今一度、生きること(死ぬこと)について考えてみたいものです。
おかげさまで お盆も 南無阿弥陀仏

 

f:id:tarou310:20190813113937j:plain