手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

阿弥陀さまの救いと煩悩

念仏もうしそうらえども 、踊躍歓喜のこころおろそかにそうろうこと 、またいそぎ浄土へまいりたきこころのそうらわぬは 、いかにとそうろうべきことにてそうろうやらん 」と 、もうしいれてそうらいしかば 、 「親鸞もこの不審ありつるに 、唯円房おなじこころにてありけり 。よくよく案じみれば 、天におどり地におどるほどによろとぶべきことを 、よろこばぬにて 、いよいよ往生は一定とおもいたまうべきなり 。よろこぶべきこころをおさえて 、よろこばせざるは 、煩悩の所為なり 。」
【歎異抄第九章  前半部分より】

 

歴史的な問い
この第九章には 、法然上人も果たしえなかった念仏の信心の純化の問題が 、自覚的にとり上げられております 。唯円坊の 「念仏もうしそうらえども 、踊躍歓喜のこころおろそかにそうろうこと 、 … …いかにとそうろうべきことにてそうろうやらん 」という不審は 、唯円ひとりの個人的な問題の形で問われてはおりますけれども 、他力の悲願がしんじつに人類を救済する普遍的な仏法として人間世界に展開するためには 、どうしても問い直されねばならない 、歴史的な意味をもった人類的な問題の提起でありました 。

 唯円坊をうながして
だからしてこの問題は 、如来の本願が自己を地上に顕現するために 、唯円坊をうながして問わしめた 、ということのできる 、歴史的な必然性をもった大きな事件でありました 。すなわち念仏の信心がいつも内にはらんでいた問題の剔抉です 。親鸞聖人によって 、この 「問題の所在 」が解明されることによって 、浄土教がはじめてしんじつの宗教として完成することができたのでありました 。この第九章には 、親鸞聖人が 『教行信証 』の中で図式的に教えられている三願転入の様相が 、唯円坊によって 、その求道の途上における生ま生ましい信心のつまづきとして提出されているのです 。それに対して聖人は 、そのまどいの起こる根源を解明することによって 、問題解決の道を示そうとされるのです 。

 同じ心
先ずその問題の起こる場所として 、「親鸞もこの不審ありつるに 、唯円房おなじこころにてありけり 」と 、その 「同じ心 」というものに見出だしておられることは注意しなければなりません 。この 「同じ心 」とは 、念仏もうせば 、このわが身の上にも踊躍歓喜の心が起こるはずだときめこんで 、わが身をたのみにしている善人意識です 。それはまた同時に 、念仏もうす自身に対して 、選ばれた善人としての自負を暗暗裏にいだいている善人根性です 。その心は 、本願他力をたのむ 、といってはおりますけれども 、本願をわが身の外にみて 、本願を対象として 、それに自己を賭ける心です 。聖人が三願転入の教えにおいて 、 「万行 ・諸善の仮門を出でて 、善本 ・徳本の真門に回入して 」といわれる 、念仏への自己決断です 。

 心の転換
この自力の疑心である 「同じ心 」が自他の上に明確に自覚せしめられるとき 、信心のこころの方向転換が行われてくるのです 。疑惑和讃につぎのような一首があります 。 「信心のひとにおとらじと疑心自力の行者も如来大悲の恩をしり称名念仏はげむべし 」といわれるものです 。ひとはいくら念仏に精を出しても 、自己の行のところに救いを見出すことはできません 。その救いのない自己に向かう心が転換せしめられて 、仏へとあらためて 「如来大悲 」の本願を仰ぎ仏願生起のお心をいただき直さしめられるとき信心の成就があるのです 。蓮如上人もこの問題の解明をつぎのように教えておられるのです 。「愛欲も名利も 、みな煩悩なり 。されば機のあつかいをするは雑修なり 。ただ信ずるほかに別のことなし 」と 、わが心のあり方を気づかい 、その心を改めようとする 「機のあつかい 」を転換せしめられて 、仏の悲願を仰ぐ信心ひとつがわが救い 、といわれるのです 。ここに「よくよく案じみれば 」と 、自己のところに救いの見出せない不審の心が転ぜしめられて他力の悲願を仰ぐとき 、「天におどり地におどるほどによろこぶべきことを 、よろこばぬにて 、いよいよ往生は一定 」という明確なゆるぎのない信心の世界が展開されてくるのです 。この親鸞聖人の 「よろこぶべきことを 、よろこばぬにて 、いよいよ往生は一定 」という驚異の御発言について 、「逆対応 」という解釈が行われておりますが 、それは言葉の表面にとらわれた 、自力疑心の人間の側からの理解です 。

 自己放棄
この私が 「喜ぶべきことを喜ばぬ 」から救われるということではありません 。これは自己放棄を意味するおことばです 。この私が 、如来本願の世界に生かされてみれば 、「喜ぶべきことを喜ばぬ 」ままに 、自己を当てにする心がすてられて 、大いなる 「ゆるし 」の中にある自己に深く 「うなずか 」しめられる 、ということであります 。全く逆対応ということではなくて 、久遠却来の事実が初めて陽光のもとに現出したという実相の成就です 。そこにあるものは 「本願たのもし 」の 「如来大悲の御恩 」だけであります 。
【歎異抄講話(上)寺田正勝 響流書房より】

 

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 普通に考えますと、南無阿弥陀仏の身(阿弥陀さまの救いに遇えば)にさせて頂けると、躍り上がるほど喜ぶのではないか、と思うのはごく自然かもしれません。しかしながら、実際はそうではない、といっています。そのように喜べないのは煩悩によるものだ、と断言されています。
 つまり、阿弥陀さまの救いは、煩悩に左右されるものではないということです。この一連のやりとり(親鸞聖人と唯円房)から、阿弥陀さまの救いと煩悩は無関係ということがハッキリわかります。煩悩(わたし)を指標とした救いは、私の思い込みや計らいでしかありません。まったくもってナンセンスです。阿弥陀さまの救いを、喜べるとか喜べない、とかいっている以前に、「南無阿弥陀仏」とお念仏が自然にでてくればそれでよいのではないでしょうか。
おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏

 

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