手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

落とし穴

私たちが念仏もうす身になることができたのは 、しんじつには 、人間からの努力によることではなくて 、全く一方的に 、如来に呼び覚まされての念仏だったということです 。お念仏の真実性が私を呼ぶのです 。私が念仏を選びとり 、私が念仏をとおとんでいるようですけれども 、そうではなくて 、お念仏の真実性が私をして念仏を選ばしめ 、とおとばせて下さったのです 。それなのに 、念仏もうす心にすきができてくると 、「念仏もうす我 」というものがお念仏の上にのさばり出てきて 、念仏をわがものにして 、念仏している 「我 」が何かえらいものにでもなったかのように思われだしてくるのです 。念仏者の堕落です 。注意しなければならない落とし穴です 。

【歎異抄講話(上) (御堂電子叢書) 寺田 正勝  響流書房より】

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浄土真宗のある先輩は、

阿弥陀さまの救いは、「一方通行の仰せ」という表現をもってして教えていかれました。方向は、「阿弥陀さま⇒私」であって、「私⇒阿弥陀さま」ではない、ということです。つまり、私から、「なんとか助けてください!」と懇願したり祈ったりする宗教ではないということです。浄土真宗は他力の教えといわれる所以でもありましょう。他力といいますと、棚からぼた餅的な発想で捉えがちですが、そういうのは怠慢といいます(笑)。また、念仏あってのわたしであることは肝に銘じたいものです。念仏をわがものとして念仏している人は、真の念仏者ではありません。念仏者ぶっている人です。真の念仏者、つまり、「阿弥陀さまにおまかせ状態の人」には、ここでいわれている落とし穴はない、と思います。なぜならば、(真の)念仏者の称える念仏は、報恩感謝の念仏だからです。

おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏

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