まず、超因果について。
世間の法および出世間・聖道門の法は、修因感果(まいた種は自分で刈りとらねばならない)の道理に立つ教えですから、自因自果ということになり、他作自受(甲が酒を飲んで乙が酔う)ということを許しません。
ところが、本願の道は、衆生の成仏の因である願行を弥陀が成就し、成果は衆生が受けるという道であります。この浄土の法門は、世間や出世間・聖道門の自因自果という因果の道理と超異している法であります。
一見したところ、他作自受にみえますが、他作自受ということは、浄土の法門においても許されないのであります。弥陀の成就した願行の因が他力廻施(たりきえせ)の手続きを経て衆生の願行となる。衆生は、その願行の因によって成仏という果を実現するのでありますから、因果の道理を無視した教えではありません。世間・出世間の因果を超えた因果法であります。
【『安心決定鈔』法話 瓜生津 隆雄 著 P65,P66より】
※他作自受(たさじじゅ)
「願行具足の南無阿弥陀仏」ありがたいことです。
なむあみだぶつ