手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

真宗信心の特色は他力回向の信である

 蓮如上人の『御文章』には、「機法一体の南無阿弥陀仏」という表現があります。これは、南無阿弥陀仏の六字のこころを「機法一体」で解釈されるのですが、ここでいう機とは衆生のこと、法とは阿弥陀仏を指すのであり、一体とはその体が一つであるというのです。
 この解釈に二種類あります。その一つは、「南無」を衆生の側(機)に、「阿弥陀仏」を如来の側(法)として、機法一体を示されるのです。
 『御文章』(三帖目七通)に、
しかれば「南無」の二字 は、衆生阿弥陀仏を信ずる機なり。次に「阿弥陀仏」という四(よつ)の字のいはれは、阿弥陀如来衆生をたすけたまへる法なり。このゆゑに機法一体の南無阿弥陀仏といへるはこのこころなり(『注釈版聖典一一四七頁』)
とあるのはこの立場です。
 すなわち、「たのむ機」と「たすくる法」とは、体は別ではなく、南無阿弥陀仏の六字の他にはないことをいうのです。この解釈は、六字を二字と四字に分けて機と法に配当した解釈ですが、このような解釈を拠勝為論(こしょういろん)といいます。
 二つは、六字皆機・六字皆法という解釈があります。
 このなか六字皆機とは、『御文章』(三帖目二通)に、
他力の信心といふはいかようなることぞといへば、ただ南無阿弥陀仏なり(『同』一一三七頁)
とあります。これは「オタスケ(阿弥陀仏)をタノム(南無)」と解釈する立場です。すなわちたのむ機は、たすくる法が衆生の心に受けとられた相(すがた)なのです。たとえば、水中に月が宿っているのは、天上に月が出ているからです。天上の月(法)が、そのまま水中(機)に印現するのが信心ですから、信は南無阿弥陀仏の他にないのです。
 次に六字皆法とは、『御文章』(一帖目十五通)に、
南無阿弥陀仏の体は、われらをたすけたまへるすがたぞとこころうべきなり。(『同』一一〇六頁)
とあります。これは、タノマセテ(南無)タスカル名号(阿弥陀仏)と解釈する立場です。
 たとえば、それは印鑑のようなものです。印鑑は左文字に彫ってありますから、紙に押せば右文字として出てくるのです。すなわち、印鑑は紙に押したときに右文字になるように、すでに彫刻するときから考えられているのです。これを昔の人が、「左文字おせば右文字 たすくるの他にたすかる 道なかりけり」と詠みました。必ず救うの如来の願力が衆生の心に至り届いた相(すがた)が、お助けを喜ぶ信心となるのであって、如来の願力より他に衆生の信心があるのではありません。このような南無阿弥陀仏の全体が衆生の信心となるという解釈を、克実通論(こくじつつうろん)といいます。
 このようにして、宗祖の六字釈は、南無阿弥陀仏の名号は如来智慧と慈悲が完全に備わった、衆生済度の法であることを開顕されました。そして蓮如上人は、その名号が衆生の心に至り届いて信心となるのであって、衆生の信は阿弥陀仏の救済の法の他になく、信心(機)も救済活動(法)も、一南無阿弥陀仏に成就されていることを示されたのです。宗祖の六字釈における名号独用論も、蓮如上人の機法一体論も、共にいえることは、真宗信心の特色は他力回向の信であることの解明であったということです。
真宗Ⅰ 三年次 学習課程 中央仏教学院 通信教育テキスト P38〜P41より】


※拠勝為論(こしょういろん)
 言葉の特色を主として論ずること  

※克実通論(こくじつつうろん) 
 宗義をつきつめて論ずること


真宗信心の特色は他力回向の信であること」と親鸞聖人、蓮如上人がご明示して頂いています。100%他力です。
ですので、わたしは南無阿弥陀仏のおはたらきを気づかせて頂くだけです。
まことにありがたいことです。
なむあみだぶつ