手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

如来さまの教えに共鳴した人

 信を得た者は、その時から価値観が変わっていきます。今まで自分の都合だけを中心にしてものを考え、行動していた。相変わらず煩悩は湧き起こってくるけれども、そのことを、あさましく、恥ずべきことだと反省するようになってきた。それはすでに如来さまの考え方の枠組みが心のなかにできてきているからです。心のなかに「煩悩を起こすことは申しわけないことだ」という心がもし出てきたら、少しずつですが煩悩に歯止めがかかってきます。それがさとりの仲間に入った証拠です。如来さまの価値観が、わたしを支配しはじめているのです。こうして、少しずつではありますけれども、軌道修正ができるようになる。
 「腹を立てて何が悪いか、自分の好きなものを欲しがって何が悪いか」と言っている人と「自分の我欲が突っ張っていたら、人にも迷惑をかけるし、自分自身も苦しい破目に落ちる。危ないことだ」と歯止めがかかる人。後者は、「少しでも人々のお役に立ちたいものだ」という新しい方向性が出てきます。これはたいへん大きな違いです。ですから親鸞聖人も『御消息』第二通に、
もとは無明の酒に酔ひて、貪欲・瞋恚・愚痴の三毒をのみ好みめしあう て候ひつるに、仏のちかひをききはじめしより、無明の酔ひもやうやうすこしづつさめ、三毒をもすこしづつ好まずして、阿弥陀仏の薬をつねに好みめす身となりておはしましあうて候ふぞかし。
(『註釈版聖典』七三九頁)
とおっしゃっています。
 仏さまの教えを聞いてきた人、如来さまの教えに共鳴した人は、今まで無明の、自己中心的な想念をたれ流していたのが、申しわけないことだなあ、勝手なことを考えていたなあということに気づいて、少しずつだけれども軌道修正するようになる。一度に変わりはしません。大きな船というものは、一度にすうっと方向転換できないものです。何しろ久遠劫来、迷ってきたのですから、骨の髄まで煩悩が染みついている、舵も効かないボロ船です。だから、なかなか簡単には軌道修正ができない。けれども、あちらにぶつかり、こちらに追突しながらも、少しずつ如来さまの教えのまことが知らされ、尊い先達の教えに従いながら、少しずつですけれども、慎んでいかなければならん、という気持ちが起こってくる。それが起こりはじめたら、私たちの価値観が変わる。そのことを聖人はおっしゃるのです。(梯 實圓)
妙好人に学ぶ 梯 實圓  松田 正典  芦屋仏教会館 編  自照社出版 P15~P17】



阿弥陀さまの南無阿弥陀仏のおはたらきに気付かせて頂きますと、
もちろん煩悩はなくなりませんが、
より、煩悩がクローズアップされてきます。
ここでも教えてくださいますように、少しずつですが、慎みの気持ちが起こってきます。
これも南無阿弥陀仏のなせる業(わざ)ですね。なもあみだぶつ なもあみだぶつ



                共鳴(イメージ)