手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

仏法聴聞とはどういうことか

 昔のお説教ではよく、お説法を聞くときは自分は重症の病人になっているつもりで聞きなさいというふうに言われたことがあります。足も立たない、腰も立たないままベッドに縛り付けられて死ぬ病気にかかっている自分だという気持ちになって仏法を聞かないと、仏法はとても身に入らないというのです。何でも自分の力でできると思っている人は阿弥陀さまに用はない。そういうことを昔のお説法では言われたのですが、その通りだと思います。自分が絶対に無力な存在であるということが本当にわからない限りは、阿弥陀さまの本願は何といっても他人事です。「間に合っています」という人には阿弥陀さまはいらない。「仏法を聞いていたら、まあ人生が豊かになりますな」ぐらいに思っている人は仏法を本当に聞いていないのです。いろいろな人の話を聞いていたら参考になると思っている限りは講演や落語を聞いているようなもので、仏法を聞いているわけではないのです。
 それを聞かないことには助からないものを聞くのが仏法聴聞というものです。この私の命よりも大事なものを聞くのです。はじめはなかなかそう思えなくても、そのつもりにでもなったらよいのです。つもりにでもなったら、だんだんその通りになっていくのです。人間というものは何事でも、最初はものまねをしていたらとうとう本物になっていくのだと思います。南無阿弥陀仏とはもともと阿弥陀さまが私たちに向かって語っている言葉です。だから、阿弥陀さまのまねをしていたら私たちは、ついに南無阿弥陀仏になるのです。         中略
 阿弥陀さまのまねをしているうちに本当に南無阿弥陀仏になります。「学ぶ」(まなぶ)と「学ぶ」(まねぶ)とは語源が同じです。蓮如上人が「弥陀をたのめば南無阿弥陀仏の主に成るなり」(「浄土真宗聖典」一三〇九頁)と仰ったように、南無阿弥陀仏を称える人は南無阿弥陀仏にしていただくのです。この仰せに嘘いつわりはありません。私どもの人生は、南無阿弥陀仏になるための人生です。南無阿弥陀仏を称える人生とは間違いなく南無阿弥陀仏になる人生なのです。南無阿弥陀仏に育てられて、ついには南無阿弥陀仏そのものになる。これが今の言葉で言ったら、本当の命になるということです。本当の命になるということは自分だけがいつまでも長生きしているということではなくて、すべての衆生を本当の命にあらしめたいという、そういう命そのものの働きになるということです。
【宇宙の中の自己の救い 『歎異抄』後序  大峯 顕 百華苑 P56~P58より】



自分は重症の病人になっているつもりで聞いたら阿弥陀さまに救われる、ということではありませんが、そういった聴聞姿勢・心もちは大切だと思います。
ここで留意しなければならないことは、「自分は重症の病人になっているつもりで聞く」に傾いてしまいますと、ずっ〜と、私の傍に寄り添って下されている阿弥陀さまの温もりを感じることはできません。自分の力で、なんとかなるさぁ〜と自分を可愛がる自分がいます。阿弥陀さまに向かわせて頂くことが肝心です。聴いているうちに聞こえてきます。南無阿弥陀仏と唱えているうちに南無阿弥陀仏と称えるようになっていくのです。
「必ず救う!」といわれた阿弥陀さまのお言葉(願行具足の南無阿弥陀仏)にウソ偽りはないのですから。誠にありがたいことであります。
なむあみだぶつ なむあみだぶつ