手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

如来よりたまわりたる信心

 「諸人伝説の詞」のなかには、法然聖人の「つねのおおせ」として次のような法語が記録されています。


たとへば葦(あし)のしげきいけに十五夜の月のやどりたるは、よそにては月やどりたりとも見へねども、よくよくたちよりて見れば、あしまをわけてやどる也。妄念のあしはしげけれども、三心の月はやどるなり。


まことに美しいご法話ではありませんか。三心とは、『観経』に説かれた至誠心、深心、回向発願心のことであり、第十八願に誓われている至心、信楽、欲生のことです。しかし、それは要を取って言えば、疑いなく本願を聞き受けている信心(信楽・深心)の一心に収まります。その信心を水月(水に映った月影)に喩えていらっしゃるのです。
 もともと信心とは、私の心ではなく、「必ず助ける」という如来さまの大悲心が、私の妄念煩悩の心中に響き込んで、「必ず助かる」という信心となっていてくださる心です。信心は、確かに私どもの煩悩心中に宿っていますが、決して煩悩の心ではありません。その本体は仏の大悲心なのです。だから煩悩に染まることなく、逆に煩悩の心を照らし、転換し、輝かせているのです。信心とは、泥沼に宿った月影のことです。そこに自ずから「如来よりたまわりたる信心(三心)」という領解が生じるわけです。
親鸞聖人のご生涯 ―法然聖人との出遇いからご往生まで― 自照社出版 P37,P38 (梯 實圓)】



水面に、月明かりが反射(反映)している情景は
なむあみだぶつと称えよ!と、阿弥陀さまがおっしゃられていることに気付かされて、な〜まんだぶつと応えている自分の姿と重なります。
いうならば、阿弥陀さまとわたしで、南無阿弥陀仏というボールを使って、キャッチボールしているようなものです。まあ、私の方は、余裕があるときにしか、お念仏は称えられませが・・・・・・
阿弥陀さまの「必ず助ける」と、私の「必ず助かる」は符合します。その証拠が、南無阿弥陀仏です。南無阿弥陀仏は、阿弥陀さまと私の共通語です。つまり、会話が成立するのです。なむあみだぶつ。