真実はどんなささやかな生活のうえにあらわれても滅ばされない権威を有している。
われらの手につくられたものはみんな滅びます。われら自身も滅びつつあるのです。それをおもうほど、滅びない生命を体現して生きたいと念ぜずにおれません。
真実は如来である。如来の外に真実はありません。この如来の真実をわれらの念持しうるように現実的顕現をしてくだされたものがすなわち南無阿弥陀仏の御名であります。この南無阿弥陀仏が私の生命として体験せられたのが信心であります。それゆえに如来がわれらの生活に顕現せられたのが信心であるともいえるし、われらが如来の生命に眼ざめたのが信心生活であるとも味わわされます。(梅原眞隆)
梅原はよく「限りある命に限りない生命をいただく」とも「私の生活の中に如来の生命がおりこまれる」とも話していた。 ・・・中略・・・
梅原が法話の中で、「如来が存在するか否かと疑うものがあれば、ここに集まっている人びとの称えるお念仏を聞くがよい。これが阿弥陀如来の存在する証拠だ」と話していたことを思い出す。
【自叙で綴る 梅原眞隆の生涯 太田心海 法蔵館 P70、P71より】
【略歴:梅原眞隆】
明治18年 滑川市寺家町専長寺に生まれる
大正15年 仏教大学(大正11年龍谷大学と改称)本科卒業
大正08年 仏教大学教授
昭和05年「顕真学苑」を、玉置・大原・高千穂等と設立。主幹となる
昭和28年 西本願寺勧学寮頭
昭和32年 富山大学学長(〜36年)
昭和41年 勲二等瑞宝章を賜る。7月、81歳で逝去
※親鸞に出遇った人びと3 同朋舎 より
南無阿弥陀仏は、単なる言葉ではありません。
ここでもいわれていますように、
「南無阿弥陀仏が私の生命として体験せられること」がなければ、本来の意味をなしません。もちろん、南無阿弥陀仏と唱えることは尊いことですが、その南無阿弥陀仏のおはたらきを知らされて南無阿弥陀仏と称えることはより尊いことです。
阿弥陀さまも悦んでおられます〜 うんうん(自分で頷く)