手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

南無阿弥陀仏につつまれて

阿弥陀さまの御慈悲の中に生かされていると実感した今』と答辞として書かれた文章に目が留まりました。
南無阿弥陀仏のおはたきを知らされた喜びは、ガッツポーズをして跳び上がるような類ではないように思います。
歓喜の雄叫びをあげるようなよろこびは、自分の目標としていたことに対して、その努力によって達成できたときのよろこび表現です。いうならば、自力の喜びです。
南無阿弥陀仏のおはたらきに気付かされた、つまり、阿弥陀さまに救われたよろこびは
安堵感がある静寂なよろこびだと思います。
人それぞれ風貌、性格が違うように一概にはいえませんが、総じて、そういうよろこびではないでしょうか。
もし、阿弥陀さまに救われたといって、「やった〜 助かった〜」と声を張り上げて喜んでいるひとがいるならば、是非、会ってみたいものです。
阿弥陀さまに救われると、跳び上がるような歓喜が湧き起こると想像しがちですが、そうではありません。そこに捉われますと、骨折り損の草臥れ儲けです。
すでに届けられている南無阿弥陀仏
このいまも、逃げる私を追いかけ抱き摂ろうとはたらいている南無阿弥陀仏
すでに南無阿弥陀仏につつまれている状況下において、
阿弥陀さまの南無阿弥陀仏のおはたらきに気付かせて頂く。ただそれだけです。
それ以外に、なにがありましょう。


骨折り損の草臥れ儲け
【読み】ほねおりぞんのくたびれもうけ
【意味】 骨折り損の草臥れ儲けとは、苦労するばかりで利益はさっぱりあがらず、疲れだけが残ること。
※故事ことわざ辞典より