手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

向こうから開かれてきた世界

−方便の願と三願転入−
 「化身土巻」には、阿弥陀仏の第十九願と第二十願がかかげてあります。第十九願は修諸功徳(しゅしょくどく)の願とよばれ、浄土を願う衆生が、もろもろの善根功徳(諸行)によって往生できることが誓われています。また第二十願は植諸徳本(じきしょとくほん)の願とよばれ、浄土を願う衆生が、一心不乱の称名念仏によって往生できることが誓ってあります。これはいずれも自らの善根、いいかえれば自力によって往生するというものです。
 第十九願は、また至心発願の願と名づけられます。第十九願に誓われている修諸功徳、つまりもろもろの善根功徳を修するとは、たとえば戒律をまもることや心が乱れないようにたもつことであり、これは、いわゆる聖道仏教で悟りへ至るべき修行法とされているものです。この聖道仏教での行を、浄土の教えにもちこんで浄土往生を願うので、第十九願を至心発願の願というのです。
 第二十願は、また至心回向の願と名づけられます。第二十願は一心に称名念仏するというものですが、念仏の教えはもともと他力の教えです。この他力の教えにあいながら、念仏を自らの善根として回向して浄土に往生しようとするので、第二十願を至心回向の願というのです。
 第十九願・第二十願の教えを明らかにされた後、三願転入といわれる文があります(『註釈版聖典』四一三頁)。そこでは、第十九願の諸行往生の教えから、第二十願の自力念仏往生の教えに入り、さらに第十八願の他力念仏の教えに入られたという、親鸞聖人ご自身の体験が述べられています。この聖人の体験をよくよく検討してみますと、第十八願の他力念仏往生の世界は、第十九願・第二十願の教えを進んで行くところに到達する世界というよりも、第十九願・第二十願の教えを進んで行くうちに、(※)思いがけず向こうから開かれてきた世界であります。聖人は「総序」に、本願との出あいについて「遇(ぐう)」という字を用いられています(『同』一三二頁)、この「遇」という字には「思いがけない出あい」という意味があり、こちらから到達する世界ではなく、向うから開かれてくる世界であるということが示されているのです。


−方便の意味と三経の真仮− 
 第十九願・第二十願の教えは、第十八願の教えに入ったうえは方便の教えとして捨て去られたものですが、単に捨て去るべきものとして完全に否定されるだけではなく、第十八願の他力念仏往生の教えに誘い引き入れようとされる、阿弥陀仏の≪てだて≫であるという意味があります。≪方便≫ということばは、もともと≪てだて≫という意味があり、真実の世界に入ったうえは捨て去られるものでありながら、真実に入るうえでは重要な機縁となるべきものであったと、感謝されるべきものであります。ただし、これらのことは真実に入ったうえではじめて言えるべきことであるのはいうまでもありません。聖人が、「総序」に、
いまさいわいにして、この行信を獲たならば、遠く過去の世からの因縁を慶べ(『同』一三二頁取意)
といわれるのはこの意味にほかなりません。

真宗Ⅱ 中央仏教学院 通信教育 三年次 学習課程テキスト P42〜P44より】


※一部改編
テキストでは「思いがけず向こうから開かれてきた世界であるということができます」と記載。「世界であるということができます」の箇所が意味不明のため、『思いがけず向こうから開かれてきた世界であります』としました。



三願転入を解釈する上で、第十八願の視点で捉えないと、聖道仏教になってしまいます。
南無阿弥陀仏のおはたらきに気付かせて頂いてはじめて三願転入の本質を味わいさせて頂けるのです。ありがたいことです。南無阿弥陀仏