手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

おかげさまで

 縁起の世界のあり方は実にさまざまに分析でき、しかも重重に関係しあっています。たとえば、私たちが通勤のため電車に乗るとき、線路や電車を作ってくれた人、切符や定期を売る機械、改札の機会を作った人等が不可欠であり、その背景にはどれほどの人々が関わっていたかしれません。いまもレールや架線の安全を点検する人が不可欠であり、もちろん何よりも電車を運転する人が必要で、そのためには運転手を訓練する人も要ります。さらに電車に乗ってくれる多くの人がいなければ鉄道の事業は成り立たず、その乗客は会社や役所その他、一定の人々の集団に帰属して生活し得ているでしょう。しかし、その会社等は、また多くの取引先等があってはじめて成立し得ているわけです。とすれば、当然のように電車に乗るとして、そのことが実現する背景には、自分の知らない莫大な数の人々の関与があることになります。
 あるいは、一回の食事にも、料理を作ってくれた人のみでなく、箸や食器を作った人、調理の道具を作った人、食材を作った人、それを運んだ人、そのための道路や輸送機関を作った人等々との共同作業になっているのが事実です。私の一挙一投足が、実は他者との無限の関係性のなかでの共同作業なのです。
 私たちはそのなかに生かされていることを深く理解するとき、「おかげさまで」という言葉がおのずからこぼれるでしょう。
【日本仏教 思想のあゆみ 竹村牧男 講談社 華厳宗の世界観より】



この2つの例からも
「私の一挙一投足が、実は他者との無限の関係性のなかでの共同作業」であることが分かります。日々、私は、自分自身の力で生きていると思いがちです。しかし、よくよく考えてみますと、実は、「生かされて生きている」ということが思い知らされます。
「おかげさまで」、ほんわりしたあたたかい言葉ですね。
今日も南無阿弥陀仏