手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

生死を考える (生と死は表裏一体)

 仏教では〝生死(しょうじ)〟と言う。世の中一般の人は、〝死生〟と死の方を先にして言う。私どもは死を忘れれば生の尊さもわからぬ。生は絶対的なものだと言うが、こういうのは、死を裏においてこの生は絶対的と言うのであろう。生と死が一枚の紙の裏表であることがわからぬ人は、生の尊さがわからぬ。生はいつも危険にさらされていることを知らなくてはならぬ。死を忘れておれば、生を忘れている。今の人は生命の尊さを言うけれども、生命がいつも危険にさらされていることを真に知らなくてはならぬ。いつもの死の危険にさらされている。交通禍だけでない、畳の上に坐っていても、死の危険にさらされている。どこにも安全地帯はない。人間は安全地帯だけを考えているが、本当はどこにも安全地帯はない。それほど人間は危険にさらされている。危険にさらされているから、生の尊さがわかる。
 死などは今ないではないかと言うが、生を考えるときにはいつも死を考えて、この危険の中に生かされているのはただ事ではない、われわれのこの生命にも一つ根源的なものがあるに違いない。いま私どもが考えているような生命のもっと根源的な大生命があって、それから私どもはその生命の一部を受けているのだ。全体と一部分はこれまた相離れないものである。全体は「正信偈」の「帰命無量寿如来、南無不可思議光」、阿弥陀如来の大生命の一部だが、私どもの生命と大生命と離れない。仏と私とは紙の裏表のような必然的な関係を持つ。因縁を持っている。どういう因縁を持っているかを教えて下さるのが仏の本願である。私どもは、仏を離れて自分はない。仏は自分を離れておいでにならぬ。仏と自分は、全体と部分というものであろう。
 私どもは、まことに危険にさらされていることを忘れておる。煩悩、業あって、仏さまを忘れている。また私を忘れている。死ぬことを忘れている。後生を忘れている。口では生命は尊いと言うているが、言うているだけで、いくら生命の尊いことを言うてきかせてもわからぬ。
【略】
 とにかく、われわれは、生と死は一枚の紙の裏表だということを本当に知ることによって、死生(生死)を超越すべきものである。死生を超越するところに来なければ、本当に生きるということがない。本当に死生を超越するには、絶対無限の生命であらせられる如来に、無量寿の如来に、帰命する。無量寿の如来を信ずることが大切である。それなくして、ただ生命を尊ぶと言うが、そういう人は生命の尊さを知らぬのであろう。人に対して生命の尊さを知るには、絶対無限の如来が、一切衆生の一切の生命を包んで、仏さまがある。われわれと無関係に仏があるのではない。われわれを包んで仏の本願がある。
【曽我量深 講話録1  大法輪閣 P134〜P136より】


正信偈(しょうしんげ)
親鸞の著書『教行信証』の「行の巻」所収の偈文。「正信念仏偈」の略称。
早くから真宗僧俗の間で朝暮の勤行として諷誦され,いまも行われている。
三国七高僧の行実や教義によって,真宗の要義大綱を七言 60行 120句の偈文にまとめたものである。
(コトバンクより)



「南無阿弥陀仏」視線でこの文章を読みますと、よく理解できます。
あらためて、「このいま」が大事であるなぁ〜、と思いました。
理屈なしに 南無阿弥陀仏
今日も 包まれて 南無阿弥陀仏



日立自動車教習所ホームページより
※解答は「念仏によって眼に見えぬ光を感じる 」の下段にあります