手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

自分の力で生きていない証拠

 「あの教えは間違っている、こちらが本物だ」などと言っているのは、こちらに問題がある。私たちは自分の知恵でなんとか煩悩の苦を取ろうとするし、それから、いつ死んでもいい身になろうと思い、悪を出すまいと思って努力します。けれども、次々と病気は出てくるし、煩悩は出てくるし、始末がつかないところに、現世祈りの宗教をたのんで、病気を治してもらおう、貧乏から抜けださせてもらおうとするのでしょう。そういうところに行ったということは、裏からいうと、自分の力で生きていないという段階に踏み込んだのだと思います。
 皆さんもそういう経験がおありだと思うのです。形としては現世祈りの宗教に行かなくても、心の向きがそんなことになるのではないでしょうか。そうすると、新興宗教にせよ、お稲荷さんにせよ、阿弥陀さまのお手だてとしてあるのではないでしょうか。だから現世を祈っている人には、しっかりお祈りしなさいと心に念じているのがいいのでしょう。もっとも、あまり祈ってそこに時間をつぶすと、後があるのだけれど。
【藤原正遠講話集 第二巻 法蔵館 P73,P74より】



この文章を受けて考えてみたいと思います。
(この文章の)前半でいわれていることをより掘り下げてみますと、
「イヤでも死んでいかなければならない現実」をみただけで、わたしは自分の力で生きていない証拠である、ということがいえます。死にたくないわたしの思いとは裏腹に、死は必ずやってきます。これが現実です。自死は論外ですが、自分の死をコントロールすることはできません。「自分の身体は借りモノだ」といわれた方がいますが、その通りだと思います。つまり、わたしは、大きな力に生かされて生きている、ということです。
このいま、南無阿弥陀仏のおはたらきを知らされていない人も、そのはたらきのお育てに与っているのです。しかしながら、人生にはタイムリミットがあります。このいま、南無阿弥陀仏のおはたらきに気付かせて頂きたいものです。
今日も南無阿弥陀仏