さて、冒頭の鳥たちに「目先のことだけに追われて虚しく人生を終わるのか?」と皮肉られるような、姿かたちだけの人間を生きてはいないだろうか。「せっかく人に生まれさせてもらえたのに・・・・・・」と。仏教における人間に生まれた意味とはここにある。
釈尊が自らの一生を私になぞらえて生きてくださり、しかもすっかり解決し、説かれた覚りの中身のエキスを院内で聴ける。この「縁」を悦ばずして何を悦ぶべきであろうか。
「人生の目的」即ち「人間に生まれた意味」「究極のアイデンティティー」に出遇い、「人生の答え、生死の解決に遇う」「平成業成」「今もう救いの中」もう人生の目的の中にいる。だからもう何も思うことなし!「生き生きと今を輝いて生きられる」。だったら自由に存分に苦の娑婆(しゃば)を生き切ろうではないか。
最大の「我が心配」仏の受け持ちであった。これをビハーラという。
【お浄土があってよかったね −医者は坊主でもあれ− 宮崎幸枝 樹心社 P92、P93より】
ビハーラ
欧米で発祥した「ホスピス」がキリスト教系の響きを持っていることに対し、「ビハーラ」は仏教的独自性を出したことに特徴がある。
ターミナルケアにおける人間の精神面の重要性が見直され、終末看護と終末看死において仏教者(ビハーラ僧)と医師、看護職ないしソーシャルワーカーなどによるチームワークに注目したことに仏教社会福祉的特徴がある。
【ウィキペディアより】
私が・いま・ここで、こうして生かされて生きていることすべてが阿弥陀さまの受け持ちであった、と分からせて頂く、気づかせて頂くことは非常に尊いことです。
すべてにおいて、主語は阿弥陀さま、なのです。
浄土真宗を語る上で、
「人生の目的」という言葉は、阿弥陀さまと私との間に距離感を感じますので、あまりよい表現ではないと思います。
しかしここでは、「人生の目的の中にいる」とあります。『〜の中』が加わるだけで、ガラリとニュアンスが変わります。よい表現だと思いました。
大雪の中 今日も なもあみだぶつ