手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

表裏一体 (生と死を考える)

 死はどこにあるか。終端におけるそれが、あくまでも不分明なままならば、私たちは死を、生のどこに見い出すことができるのか。
  今のここ
 と、私は言った。生を生たらしめているものは、生でないものすなわち死である。瞬間瞬間の生を瞬間瞬間の生たらしめているものは、瞬間瞬間の死である。だから死は今のここにある、と私は言ったのだ。ところで、
 「ここ」とは、どこか
 「ここ」と言うとき、そこはもうここではない
 「ここ」なんて、どこにもない
  だから死はない、したがって生もない
  なんとまあ不可思議にも明瞭すぎる話
 なのに、これがたいていの人には、全然明瞭ではないのである。生は確かで、死はなんとなく先のことなのである。そうして漠然と根拠なく設定した期間のうちに、あれを求めたり、これを悩んだり、例のライフプランてやつ。私、そんなの生まれて一度も持ったことがない。
  それじゃまるで人生に意味なんかないみたいじゃないですか
 そんなの私の知ったこっちゃないわよ。別に責めてるわけでなし。好きに生きればいいのだし。
 ただ、少なくとも私は、生来の変てこな理論くせによって、生は確かで死は先のこととして人生の意味を求める仕方は、もしも人生に意味を求めるとするならば、決定的な勘違いだと知っている、というそれだけのことである。
【残酷人生論 池田晶子 情報センター出版局 P14,P15より】



鋭い指摘といいますか考察です。
生死一如(しょうじいちにょ)といわれますように、生と死は表裏一体です。
ここで、「ほとんどの人は、生は確かで、死はなんとなく先のこととして生きている」と指摘されています。もちろん、わたしもこのなかのひとりです。
このようなブログを書いて偉そうなことをいっていますが、
わたしが、このいま、ここで、死ぬとは全く思っていません。明日や年末の予定で頭がいっぱいです。
このように、全く当てにならないわたしの思いやはからいとは関係なく、
阿弥陀さまの南無阿弥陀仏のはたらきは、このいま・ここで・わたしに、はたらいています。こんなにありがたいことはありませんし、安心なことはありません。
今日も生かされて 南無阿弥陀仏



two faces in one