手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

一心同体 南無阿弥陀仏

兵頭格言(四国在住の求道者)が87歳の老体をもって、京都上加茂に安田理深を訪れ、信仰上の諸々の疑問を訪ねられたときの記録 


兵頭(質問)
他力を信ずるということがわからないのです。他力を向こうにながめて自分が信ずるというような具合になる。


安田(回答)
他力を信ずるのであるから、向こうに置くようであるが回向ということがある。信ずる心が回向されている。


兵頭(質問)
回向成就、回向成就とご意見に出ておりますが、実際、言葉と心とがはっきりしておりません。


安田(回答)
書物は、人が聞いて書いているから、聞いた人が自分の頭に聞こえた所だけ書いているからわからないものです。本だけ読んでも疑問がだせないでしょう。質問ができないのです。


兵頭(質問)
名号の中に心が座らないためにむずかしいのです


安田(回答)
据えようとするから座らない。こちらが座るのではない、座らせられる。座ろうとするのではなく、計らわれるのである。それが南無阿弥陀仏。全部が南無阿弥陀仏だという具合に頂けたのが信心。信心はいってみれば南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏を頂けば仏は向こうにある訳ではない。仏を背負っている。それを願という。如来の本願に生きる。如来の本願を信ずれば如来の本願を背負って立っていく。如来を向こうに置くどころではない。かえって背負って立つ。自分は偉いぞという心が背負うのではない。私は百年たっても我のすたらないものだというところに背負っている。それが如来の心です。それであってこそ、悪もおそれない。往生したいという心が地獄に堕ちても後悔しない。自分の救いなどいらない。往生しなくてもよい。地獄でも喜んで行ける。これが自信というものです。如来の心に感動すればそうです。信が成り立てばそれが本願です。一遍です。ここまでわかったけれどもそこまではわからないということではない。一挙にわかる。南無阿弥陀仏のほかに何ものもない。南無阿弥陀仏というものが地獄を包んでいる。それほど広大なものです。仏法の広大というのは言いようのないものです。これまでは、自分が助かりたい、人はどうでもよいと思っていたのが、自分は助からなくてもよい、一切の衆生を助けようという如来のお心に立ち上ってくる。むしろ、自分の救いを撤回するという。如来のお心というものがわかってみれば、自分のようなもののためにご苦労して下されたその心を念じてみれば、自分のことなど思っておられない。仏法を頂くことは休むことではない。むしろ、命のある限りはたらくことです。
【信仰についての対話Ⅰ 安田理深 大法輪閣 P60〜P61より】



>悪もおそれない。往生したいという心が地獄に堕ちても後悔しない。
>自分の救いなどいらない。往生しなくてもよい。地獄でも喜んで行ける。
阿弥陀さまにまかせきっていることが、この文章から窺えます。こういう言葉がいえる心境にならせて頂く。つまり、南無阿弥陀仏のおはたらきに気付かせて頂くことは、本当にありがたいことです。そこに、大安心があります。
おかげさまで 今日も なもあみだぶつ