手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

わたしの存在意義

 何故如来を信ぜねばならぬかということは清澤先生の信仰について大切なことである。世間一般の人は、如来を信ずればどういう効能があるかで満足しているが、先生は、なぜ如来を信じなくてはならぬのかということが問題であった。自分の智慧は有限である、人生のことを真面目に考えると人生の意味は不可解である、如来に遇わなければ生きることも死ぬこともできぬ、最後は野垂れ死することにならねばならぬ、と。
 さらに進んで、わが信念は如来を信ずることであるが、その如来は私が本当に信ずることのできる唯一の本体である。如来以外に本当に信ずることのできるものはない、如来はわれが本当に信ずることのできる方、また信ぜざるを得ざるところの方である、如来がなかったら信ずるものは一つもない、如来がなかったら人生は不可解である、如来がなかったら、信仰の拠りどころ、畢竟依となるものがないから信の拠りどころがない。如来があるが故にこの世界に生死することができる。
【曽我量深講話録1 清澤先生を憶う 大法輪閣 P89,P90より】



如来がなかったら信ずるものは一つもない、如来がなかったら人生は不可解である、如来がなかったら、信仰の拠りどころ、畢竟依となるものがないから信の拠りどころがない。如来があるが故にこの世界に生死することができる。」
まさにその通りですね。
このいま・ここで・わたしに、南無阿弥陀仏のはたらきがはたらいているからこそ、人生に意義があります。
おかげさまで 今日も南無阿弥陀仏



画像:http://reibun.skry.info/?p=8050 より