良寛はたくさんの漢詩を作っていますが、次のような話があります。
擔薪下翠岑 翠岑路不平
時息長松下 靜聞春禽聲
薪を背負って山を下っているが、山は険しく歩きにくい、そこで背の高い松の木陰で一休みすることにしたところ、耳を澄ますと春の鳥が鳴いているのがよくわかった、という詩です。つまり、鳥はずっと鳴いていたのに、重い薪を背負って険しい山を歩いているうちは鳥の声は聞こえなくて、松の木陰で休んだ時、苦しみから解放された時に鳥の声が聞こえたということですが、その時「静かに聞く」と、「聞」という漢字を使っているのです。中国の古典の漢字の使い方としては、「聴く」は、自分の意思をもって注意してきく、「聞く」は自然に耳に入る、となります。
振り返ってみると、自分がたずねて答えてもらった言葉が、耳に溜まっていることはほとんどなくて、何かの拍子にふっと耳に入った言葉の方が残っています。みなさんもそうではないでしょうか。聞くというのは、私たちの無意識の中に本当のことを聞きたいという要求があるから、自我の粋が緩んだ時、他人が話している本当のことが自分に感応してくるのであり、真実の言葉が自然に聞こえてくるのです。
法然・親鸞の仏教が重視しているのは「聞」であり、良寛と共通点があります。
【『歎異抄』講義 阿満利麿 ちくま学芸文庫 P25、P 26より】
ここで紹介されている良寛の漢詩は、「南無阿弥陀仏を聞く」ということを語る上で、とてもわかりやすいです。
この文章の後半部分(黄緑色の部分)を、「南無阿弥陀仏」で置き換えますと、
「聞くというのは、私たちの無意識の中に南無阿弥陀仏を聞きたいという要求があるから、自我の粋が緩んだ時、南無阿弥陀仏が自分に感応してくるのであり、南無阿弥陀仏が自然に聞こえてくるのです。」となるでしょう。
おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏