手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

南無阿弥陀仏のなせる業(わざ)

 生は死の始まりであるが、死もまた生の始まりであるということをわれわれは忘れてはならない。「往生」ということばは、文字通り〈往きて生まれる〉ということであるから単なる死を意味するものではない。したがって往生は、仏国土に往きて仏と生まれかわるという意味であって、これはすばらしいことである。かつて親鸞聖人に仇(あだ)を為した山伏の弁円(べんねん)が、心をひるがえして名を明法坊と改め聖人の門弟となった。しかし彼が聖人に先んじて往生したという知らせを関東の門弟から受けとった聖人は、その返事のなかに、

明法御坊(みょうほうのおんぼう)の御往生(ごおうじょう)のことをまのあたりきき候(そうろ)ふも、うれしく候ふ。『注釈版聖典』742頁

と書かれている。かつては仏法を誹謗し、聖人の行動を妨害した弁円が、聖人の門弟となってひたすら念仏を相続しながらその一生を閉じたことを聞いて「うれしく候」と述べられたのであろう。また「ひらつかの入道」という人が往生されたという手紙を受けとった聖人は、「めでたさ申しつくすべくも候はず」と書かれている。われわれの最終の目的は、浄土に往生して仏同体のさとりを得るということであるから、「うれしく」とか「めでたく」ということばが用いられたのであろう。

【孤独が癒されるとき 藤澤量正 本願寺出版社 P 124、P 125より】

 

ここで注目すべきは、「門弟の死」の知らせを聞いた親鸞聖人が、「めでたい」とか「うれしい」という言葉を発したことです。「南無阿弥陀仏」の世界に通底している者(同士)への発言なのでしょう。まず普通では考えられないことです。南無阿弥陀仏のなせる業(わざ)なのです。

おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏