手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

言葉に対する仏教の三つの態度

 

 仏教においても「仏説」「仏語」「真語」「如実の言」などの言葉があるように、言葉は仏法の真理があらわれる場所として考えられている。しかし仏教の場合は、大きくいって言葉に対する三つの異なった態度が見られるようである。第一は、仏典の概念語を解読してゆくことによって、概念を超えた仏法の真理を体得し、それによって仏に成ろうとする態度である。天台宗、華厳宗、法相宗、真言宗などの諸宗派がこれに属する。概念語を超えた仏法の世界へ、あくまでも概念語の階段を上って到達しようとするのである。しかし、仏教には第二に、はじめから言語の有効性に対する批判的な態度がある。これは釈尊が、言葉による空しい論議の遊び、戯論(けろん)に対して、いわゆる「仏陀の沈黙」をもって答えたことにはじまる。大乗仏教の「空」の哲学者 龍樹(りゅうじゅ:150-250頃)の主著『中論(ちゅうろん)』にも、小乗仏教の煩雑な形而上学的論議に対する、この言語批判が明らかにあらわれている。しかし、言語に対する否定的な態度を最も端的に示しているのは、中国で発達した禅仏教(仏心宗)の「不立文字(ふりゅうもんじ)」「直指人心(じきしにんしん)」という立場である。禅仏教は、言葉は決して真理への通路ではなく、かえって邪魔になるという立場に立っている。言語はたんに指を指す指、たんなる記号であり、月そのものを直指する(直接に経験する)には、すべての言語表現を突破しなくてはならない。言語の次元を超える経験においてはじめて真理は明らかになるというのが禅仏教の立場である。

 しかしながら、このような禅仏教の「不立文字」という実在経験は、それがいったん遂行された後では、反対にさまざまな言語表現をとることになる。むしろ、禅仏教は多弁過ぎるくらいの言語表現をもっているとさえいえる。道元の『正法眼蔵』九十五巻をはじめとする禅仏教の多量の文献はその証拠である。そうすると、仏教の本来の目的は、言葉に対する素朴な信頼にあるものでもなく、逆に言葉そのものへの否定にあるのでもなく、言葉に対して正しい態度をとることを教えるところにあるように思われる。

 しかし、仏教には言葉との関係においてさらに第三の立場がある。それは『仏説無量寿経(ぶっせつむりょうじゅきょう)』にもとづく浄土教であって、ここでは言葉の役割は実に最大限の射程を獲得しているのである。この経は、一切の生きとし生けるもの(衆生)を救おうという阿弥陀如来の本願を説いているが、その本願とは自らが南無阿弥陀仏という名号(みょうごう)〈言葉〉となって衆生を救おうという本願である。それゆえ、阿弥陀如来の名号というときの「の」は、二つのものをつなぐ所有格ではなく、如来が名号であり、名号が如来であるという不一不二の独特の関係をいうのである。衆生に向かって自分自身を告げる名号以外に如来は存在しないのである。これはユダヤ・キリスト教の「神の言葉」や『仏説無量寿経』以外の大乗経典における言葉とはまったく異なった独特な言葉の世界であるといわなくてはならない。

 ユダヤ教・キリスト教において「神の言葉」といわれるときには、神そのものと言葉とはまったく一つというわけではない。神が人間に何ごとかを語る言葉だからである。しかるに、如来の名号は、如来が人間に何かを語ることではなく、如来それ自身を語ること、自己自身を名乗っていることである。如来という形なきものが言葉となって、人間に語りかけ、人間存在を肯定しているということが、浄土教が明らかににした言葉の最も深い秘密である。たしかに人間生活の表面においては、言葉は人間が自由に使う道具のように見える。しかし、人間生活のもっと深みへ行くと言葉はもはやそういうものではない。そこでは、人間存在は実は人間以上の次元から発源する言葉によって支えられているのである。言葉はその最後の深みにおいては、人間以上の世界から人間世界への通路である。

 

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 もう10年くらい前になるでしょうか。大峯先生と直接お話しする機会に恵まれました。その折、当時、先生の出された書籍で、特にオススメはなんですか?の質問に対して、今回紹介しました「宗教の招待 =宗教の再生のために=」と答えられました。以前もこのブログで、そのような件(くだり)の投稿(下記リンクあり)をしました。

 では、本題です。今回、提示しました文章は、「言葉に対する仏教の三つの態度」について、それぞれ、わかりやすく解説されています。文章最後の部分(青字/赤字部分)を言い換えますと、以下のようになるでしょう。

人間存在は実は「南無阿弥陀仏」によって支えられているのである。「南無阿弥陀仏」はその最後の深みにおいては、人間以上の世界から人間世界への通路である。

 「南無阿弥陀仏」という言葉は、単なる記号などではありません。「阿弥陀さまの命そのもの」なのです。

おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏

【宗教への招待 =宗教の再生のために= 大峯 顯 放送大学教育振興会 P 81〜P83より】

 

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