世間でいう信仰・信心は自分が神様などを信じるのですが、法然・親鸞の仏教の立場では、「まことの心」は人間にはありません。阿弥陀仏に与えられた行(=念仏)によって生まれるのです。
念仏を選択するかどうかをめぐって、当初はおおいに迷いもしますが、念仏という行を工夫した阿弥陀仏の物語に納得したとき、念仏が口をついて出てくる。そうすると、私たちにも「まことの心」=「仏の心」が生まれてくる、という次第です。ですから、阿弥陀仏の物語を心底納得することが、従来の信心とか信仰という言葉になるのでしょう。
「信心」という漢字は同じでも、親鸞においては、人間が起こす神仏への信仰と、念仏という行によって人間に生まれる仏心とは厳密に区別されているのです。そして、法然と親鸞の仏教では、世間でいう「信心」は、むしろ現代語でいえば「納得」ということなのです。
【『歎異抄』講義 阿満利麿 ちくま学芸文庫 P18、P19より】
「浄土真宗でいう信心」は、阿弥陀仏から与えられた行(念仏)によって生まれます。自分から信じる神信仰などとは異にします。
阿弥陀さま⇒わたし(浄土真宗でいう信心:阿弥陀さまが中心)
わたし⇒神さまなど(世間一般でいう信心:わたしが中心)
方向が真逆なのです。
ここでは、
『法然と親鸞の仏教では、世間でいう「信心」は、むしろ現代語でいえば「納得」ということなのです』と結んでいます。
『浄土真宗の信心』を説明する場合、「納得」という言葉は、わかりやすいです~。そのほか、「知らされた」、「気付かされた」という表現もよいですね。いずれにしましても、わたしは「受け身」ということです。
おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏