手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

南無阿弥陀仏

 

『唯信鈔文意』では、「仏性すなわち法性なり、法性すなわち法身なり。法身はいろもなし、かたちもましまさず。しかれば、こころもおよばれず、ことばもたえたり」(『聖典』709-710)と言われている。存在の真実にして不変の本性はいろもかたちもなく、われわれの理解能力を超えたものであり、言語で表現することはできない。そのゆえに、「衆生にしらしめたまふ」ために、「阿弥陀仏となりたまふ」。阿弥陀仏という形をあらわすことは、阿弥陀仏という「御な」を示すことでもある。名号とはこの名のりを意味する。しかし、いまも言ったように、この阿弥陀仏という名前は便宜的に付けられた名前ではない。「名号」は、他の言葉がそうであるように、何か別のものを指し示す記号ではない。それ自身が阿弥陀仏なのである。そこで阿弥陀仏自身が言葉になっている。両者のあいだには実体とそれに貼られたラベルという関係はない。両者は一体であり、区別することができない。衆生を救済しようという意志そのものがこの名号となっていると言ってよい。そういう意味でそれこそが真実の功徳であると言われるのである。『歎異抄』では「名号不思議」という言い方がされているが、それは、名号が単なる言葉ではなく、人間の理解を超えた真理が具体的なものとなったものであり、衆生を救済しうる大きな力をそのうちに蔵していると考えられたからである。

【親鸞 その人間・信仰の魅力 藤田正勝 法蔵館 P118より】

 

法性(ほっしょう)

法の法たる性という意。人間の虚妄(こもう)分別を超えた存在の真実なるありよう。すべての存在の真実常住なる本性。

 

仏性(ぶっしょう)

仏の本性、仏のさとりそのものの性質。また、仏になる可能性をいう。

 

法身(ほっしん)

仏の三身の一。色も形もない真如そのもの。なお、初期の仏教では、人間として生まれた釈尊の身体を色身とするのに対して、釈尊の説いた教法を法身とする。

 

真如(しんにょ)

衆生の虚妄分別を超えた存在のありのままのすがた。

 

唯信鈔文意(ゆいしんしょうもんい)

親鸞の著。本書は親鸞が、同じ法然門下の先輩にあたる聖覚(せいかく)の著した『唯信鈔』について、その題号および引用された経釈の要文に註釈を施したものである。

※浄土真宗辞典より

 

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名号(南無阿弥陀仏)は、単なる言葉ではありません。阿弥陀さまの命が込められているのでした。南無阿弥陀仏のはたらきに気づくか否か、とても大事なところです。

おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏

 

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