親鸞聖人にとって、変わりゆく私をどこまでも支えるものは何であったのか。それは「弥陀の本願」です。親鸞聖人は『歎異抄』の中で、
「煩悩具足(ぼんのうぐそく)の凡夫(ぼんぶ)、火宅無常(かたくむじょう)の世 界は、よろづのこと、みなもつてそらごとたわごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておはします」
と言われました。世間のことは、私を含めてすべてのことが移ろい変わっていきます。しかし、無常を生きる私をそのまま目当てとする本願は変わりません。その本願が躍動しているのが、私の口から出ている念仏です。だから親鸞聖人は、「念仏のみぞまこと」と言われたのです。変わりゆく私を支え続ける本願のはたらきを喜んでおられるのが「念仏のみぞまこと」の意味なのです。
いくら衣食住が揃ったとしても、変わりゆく私を支える変わらないものに出遇えなければ、私たちのいのちは迷いのいのちとなってしまうのではないでしょうか。
【阿弥陀経を読む 生きる道をたずねて 三浦真証 仏教教育出版 P33より】
「念仏のみぞまこと」力強い言葉です。日々変わりゆく私に、変わることなく南無阿弥陀仏のはたらきは、はたらき続けています。そのはたらきに気付かされるか否か、とても大事なところです。南無阿弥陀仏(のはたらき)を知らされますと、人生観が変わります。人生観が変わっても、日頃の悩みや苦しみが無くなるわけではありません。
おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏