手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

如来さまの言葉を聞くこととは

 

 昨年末私の近くのご門徒が、何人かの団体でバスでご本山へ念仏奉仕団に行った時のことです。あるお婆さんがバスに乗り遅れたのです。休憩の時にトイレに行って帰ってきたらバスが出てしまっていました。実際はバスは待っていたのですが、お婆さんは置いてきぼりになったと思ったのです。その後バスはご本山から金閣寺へ行くことになっていたので、そこでお婆さんは、これは私がほおっておかれたと思って、タクシーに乗って先まわりして金閣寺に行ったのです。ところが、バスの方はお婆さんが一人足らないものだから1時間近く待っていたのです。いくら待っても来ないのでとうとうバスは発車しましたが、金閣寺へまわる時間がなく本山だけで帰ってきたということです。一方お婆さんは、金閣寺へ行ったけれども誰も来ていないからとうとうお寺に電話をかけてこられて、一部始終がわかったのです。お婆さんは最初の場所で見つけてもらおうとジッとしておればよかったのですね。「そのまま、そのまま」と如来さまがおっしゃるように、そのままにしておれば助かるのに、余計なはからいをするものだから、結局如来さまに遇えなくなる。お婆さんはそこで待っておればよかったのです。私は西も東もわかりませんから、ここでつかまえてもらうまで待ちましょう。そうしたら必ず見つけてくれて一緒にご本山も金閣寺も参れたのに、自分だけタクシーに行ったりするからだめになってしまった。こざかしいはからいをするからだめなのです。

 仏さまに任せるということは、いっさいはからいをしないということです。お浄土へタクシーで行こうなんて思うとだめなのです。お浄土へは南無阿弥陀仏の名号というたのもしい如来さまの車で行くのです。その如来さまの車に乗ったら最後、私は眠っていてもお浄土へついてしまいます。有難いことです。如来さまを信じたら一人でに自然にお浄土へ行く。如来さまを信じるとはどういうことかというと、如来さまを偉いと思っていることではありません。如来さまがこれに乗れと言われる車に実際に乗ることを信というのです。信ずるというのは乗託(じょうたく)するということです。如来さまの大きな頼もしい本願力の船に乗るということです。そしたらひとりでにお浄土に行ってしまいます。気がついたらもうお浄土です。どのルートを通ってきたのか凡夫にはいっさいわかりませんが、とにかくお浄土に来てしまった。行けないはずの私がお浄土へ来てしまうわけですからこんな不思議はありません。だから願力不思議の信心、名号不思議の信心と言われるのです。世にも不思議なことが如来さまの力で起こるのです。その信心が一番大事だと親鸞聖人も蓮如上人も教えくださっています。

 それにしても、そういう信心はお釈迦さまと阿弥陀さまのはからいによってしか起こらないというなら、一体私たちはどうしたらよいのでしょうか。どうもこうもしようがないと思うかもしれませんが、そうではなく、仏法を聴聞するということが大切です。仏さまのおはからいだから何をしていてもはからいにつかまる、そういうことはないのです。時節到来ということは何もしないことではなく、用心をもして、その上で事が成就することを言うのだと蓮如上人が『御一代記聞書』の中で教えておられるとおりです。仏法聴聞ということがないと、如来さまのはからいには決して遇えません。だからお寺に参って、仏法を説いてくださる言葉を聞かなければだめなのです。聞くのはやはり自分が聞こうとしなければどうにもなりません。聞こえるのは自然に聞こえてくるのですが、聞こうという気がなければ聞こえないのです。この頃は聞こうとする人が少なくなっています。聞こうとしたからといって聞こえるものではないですが、とにかく聞こうという気がなければ絶対に聞こえないことは明らかです。聞こうとしていろいろやっているうちに自然に聞こえてくる。聞こうとすることは自分の力かもしれませんが、ご住職が「聞け」と言っているから聞いているということもあるかもしれませんが、やはりそれは聞こうという心が起こっているのです。それも実は如来のはからいであって聞こうという気を如来さまが起こしてくださっているのです。それは本当から言えばそうですけれども、とにかく聞こうという気持ちがないとだめです。

 そうして、聞いているうちに、聞こうというはからいが段々と捨てられていくのでありましょう。こういう経験のある方はいらっしゃるだろうと思います。いつとはなしに聞こえてきた。初めはご講師の話しか聞こえなかった。あの人が言っていることだと思っていた。今日のご講師さんは要領よくわかりやすい話をしたとか、今日はわけのわからないことを言われたとか、長々と話をした、初めはそんなふうに聞いているのです。これでは人間の言葉が聞こえているのであって、如来さまの言葉は聞こえていないのです。ところが、そういうお話の中からふと、如来さまの言葉が聞こえてくる。「お前を救うぞ」と言っている如来さまの直々の言葉が聞こえてきた。これが聞こえたということです。聞こうとしている内に、いつか聞こえてくる言葉がある。それはご講師の言葉でなく、如来さまの言葉なのです。

【宗教への招待 大峯 顯 本願寺 P227〜P231より】

 

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「如来さまの言葉(南無阿弥陀仏)を聞く」ことについて、とてもわかりやすい表現で解説されています。また、「仏法は聴聞に極まる」という蓮如上人のお言葉をしっかり受け止めたいものです。「棚から牡丹餅」的発想は要注意です(笑)。この文章を読んでいまして、このブログを始めた頃の「オープンカー(下記リンク)」を思い出しました。「南無阿弥陀仏」は色褪せることはありません。言うまでもなく当たり前のことですが。

おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏

 

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