手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

2015-01-01から1年間の記事一覧

理屈はいらない

南無阿弥陀仏は私の命そのものであります。 ですので、理屈はいりません。 そのまま、ありのまま、受け取らせて頂くだけです。 今日も南無阿弥陀仏 『仰せ一つ 加茂 仰順(かも ごうじゅん) すねいる CD法話』 を聞いて自分なりにまとめてみました。 お勧め…

阿弥陀さまの一人働き

私の口から 「南無阿弥陀 南無阿弥陀仏」と声があがってくださるということ 合わす手でないこの手が合わされてしまうということ ひとえに、阿弥陀さまの願力のおかげなのです。 今日も南無阿弥陀仏

証拠

南無阿弥陀仏は、 私の上にすでに届いています。 その証拠は、 「南無阿弥陀仏」と私の口からお念仏が溢れでてくることです。 今日も南無阿弥陀仏

はからい

聞いて参ろう 唱えて参ろう 信じて参ろう これは、私のはからいです。 南無阿弥陀仏のはたらきに気付かされると この私のはからいは 実は、阿弥陀さまのはからいであったことが知らされます。 今日も南無阿弥陀仏

一心同体

本願力に遇って、 南無阿弥陀仏ひとつになりきらせてもらう 南無阿弥陀仏が私のいのち 私のいのちが南無阿弥陀仏 今日も南無阿弥陀仏

念仏者

念仏者 つまり、南無阿弥陀仏のおはたらきに気付かされた人は、 この世の日暮れが あの世の夜明け そこに大安心があります。 今日も南無阿弥陀仏

棟方志功の回心

ある日、棟方がやってきて玄関を上がったところ、柱に掛けてあった短冊にくぎ付けになった。それには曽我量深の筆で「宿業者是本能、即是感応道交」と書いてあった。やがて棟方は「うわぁ!」と叫んで倒れ、そこいらじゅうをころげまわって、「ついにやった…

ただ信心を要とすとしるべし

『涅槃経』原文を読むと、耆婆(ぎば)は、阿闍世(あじゃせ)を慚愧ありと褒めてから、さらに語りかけている。その趣旨は、懺悔・慚愧による滅罪である。懺悔と慚愧は、そこでは、ほぼ同じ意味に用いられて次のように言う。 若し懺悔し慚愧を懐けば、罪即ち…

親鸞に聞く (津軽編)

私の住んでいるエリアは、親鸞聖人のお話しを聞く機会はほとんどありません。今回、久しぶりに法話(仏教公開講座)に参加しました。 「親鸞に聞く」は今年で45回目、つまり45年間(1回/年)途絶えることなく続いているとのことです。 たまたま、お店に貼っ…

波と海の関係

たとえを出して説明してみますと、波と海の関係にたとえればよくわかると思います。私たちは波です。一瞬の間に消えていく波です。それだけを思うと、はかないです。しかしもう一つ考えてください。波はどうして起こるのかというと、海があるから波が起こる…

慈光の中

「生きても死んでもしあわせのどまん中」の世界に目覚めさせられる、 これ以上の仕合せはありません。 今日も南無阿弥陀仏。

阿弥陀さまの救いとは

生き物が光ってみえた、 疎遠になっていた人に頭が下げられた、などなど このような神秘体験等をはじめとした事象は、阿弥陀さまの救いとは全く関係はありません。 その自分の体験を、阿弥陀さまの救いに結びつけても意味がありません。 自分の都合、思い込…

私訳について

歎異抄をはじめ、南無阿弥陀仏について記された著書が多くでています。 翻訳するのはよいですが、私訳するのはいかがなものか、と思います。 お聖教に照らし合わせて、エビデンスに沿った解釈をするのが大前提です。 そこに、私情は不要です。 特に、生死問…

如来の廻向

如来の廻向ということは、如来の救済ということであります。このあらゆる宗教には、神の救済ということをいいます。それから仏教では如来の救済ということをいう。しかしですね、その救済とはどういうことであるかということになると、はなはだ明らかでない…

証拠は、南無阿弥陀仏

現代人であるわれわれが仏教 ―― とくに浄土教に近づこうとするとき、つまずきの石の第一は「仏」とは何かという問題であり、第二は仏の世界である「浄土」の実在への疑問であろう。史上、実在の仏である釈迦については納得できるが、アミダ仏となるとにわか…

青い鳥

「病気のむすめのために、青い鳥をさがしてきておくれ。青い鳥さえあれば、あの子はしあわせになれるのだからね」 クリスマスの前の晩、貧しい木こりの息子チルチルと妹のミチルは、魔法使いのおばあさんにたのまれ、犬やネコのほか、光の精や水の精などのふ…

浄土への旅 

(南無阿弥陀仏のはたらきに気付かされたひとは)究極的には、仏陀になり、一切の衆生を救済する身にしていただくわけですが、この穢土に生きている限りは煩悩具足の凡夫であり続けます。しかし、本願を信じ、念仏するようになった者の心には大きな転換が起…

肩書

仕事上、肩書は大きな武器です。 社長、部長と記載された名刺をだされれば一目置きます。一方、なんの肩書もない名刺は、あまり威力がありません(笑)。立派な肩書をだされて、その肩書に相応した人柄、能力を兼ね備えているひとであれば問題はありません。…

縁を大切にしたい

私が住んでいる地域は、いま、桜の花が満開です。 例年より1週間も早いサクラだよりです。 本日も太陽の日差しの下、ジョギングをしました。 すっかり、日課になっています。 太陽は、私が生まれる前から、この地球を照らしています。 粛々と無機質に照らし…

大きなものに委ねる

人が、死を恐れ、恐れるゆえに避けようとするその心性が、元をただせば、人類が大きく道を誤ったことの第一原因なのだが、死を恐れなければならない理由など、本当に、ないのである。 無は存在しないから死は存在しない、という論理的な理由がうまく納得でき…

距離感

人生、やっぱり最後は南無阿弥陀仏。 分からないでもないですが、いまいち、しっくりしません。 最後の切り札的ニュアンスが勝っています。 そのフレーズに、阿弥陀さまの温もりは感じません。 人生、そのものが南無阿弥陀仏。 この言い回しが、ピッタリです…

対話

雪もなくなり、ジョギングを再開しました。 ジョギングは、体そのものによい影響を与えるだけでなく、ストレス解消にも一役買っています。 その他、やる気・精神力・集中力・記憶力にも好影響である、ともいわれています。 私にとって、なによりも、阿弥陀さ…

すでに決着はついている

大峯 だから阿弥陀さまも法蔵菩薩のとき、最初に何をしたかというと、考えたんですね。どうしたら、十方の衆生を救えるかを考えに考えたわけです。五劫の思惟(ごこうのしゆい)、それから永劫(えいごう)の修行です。五劫という無限の時間の思惟が仏さまに…

考えなければ始まらない

「考える」ということを、私たちは正しく行なっているでしょうか。 「自分の頭で考える」とは誰もが言うけれど、それを正しく行なっているでしょうか。 たとえば、私たちは誰も自分の人生を生きていますが、その人生とは何かについて、あなたは正しく考えた…

わたしとは?

わたしは、 一般的には、○○さん!と名前で呼ばれます。 しかし、 病気になれば患者さん、 車の運転をしていれば、ドライバー 走っていれば、ランナー ラジオを視聴していれば、リスナー 教員免許をとって、教壇にたてば先生 医師免許を取得して、患者を診れ…

命はいただきもの

情の世界で「代われるものなら代わってやりたい」と、人間はみなそういう気持ちを 持っています。私もやっぱり子どもを失うと、そう思うでしょう。きっと代わってやりたいと思います。私の命よりも子どもの命のほうが大事、代わってやりたいと思うでしょう。…

仏教は、果において因を自覚していく教え

釈尊はその当時のインドの宗教で常識となっていた輪廻転生説を否定しました。そして、釈尊の業思想の基本は、自覚的な「自業自得」ということです。自らの行った行為の責任は自分で持つということ。何が善やら、何が悪やらわからないけれども、善悪というも…

頷く(うなずく) 〜「南無阿弥陀仏」視点から〜

「頷く」という言葉には、 目には見えない、なにかの力によって、そうさせられる、と捉えることができましょう。 「頷く」の語源は「項(うなじ)を突く」とあります。自分で自分の項(うなじ)を突いて頷くことは普通に考えておかしいです。そういう人は、…

信じる

「信じる」ということは疑っていることの裏返しである、といえます。なぜなら、ハッキリ分かっていれば信じる必要がないからです。「信じる」には、私の都合や期待、希望が込められています。 浄土真宗の教えは、本願力回向の教えといわれます。つまり、阿弥…

わたしの計らいは一切無功

悪人であると気づかされるということは、悪を否定することでありながら、悪から脱却することのできないことに気づかされることであります。悪を悪と知り、したがって悪を犯してはならないと知りながら、しかも悪を犯さずに生きてはいけない、その人間の実相…