手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

浄土への旅 

 (南無阿弥陀仏のはたらきに気付かされたひとは)究極的には、仏陀になり、一切の衆生を救済する身にしていただくわけですが、この穢土に生きている限りは煩悩具足の凡夫であり続けます。しかし、本願を信じ、念仏するようになった者の心には大きな転換が起こります。それは煩悩のかたまりのような自分を心の主とし、煩悩に仕えるような生き方をしていることの過ちを知らされ、如来の顕れである念仏こそ真実の主であり、そのみ言葉こそ「まこと」であると受け容れる心の耳が開かれた人だからです。これからは「念仏を心の主とし、煩悩を心の客人」とみなして、如来のみ教えに導かれながら、浄土への旅を続けようと志すようになります。「価値観の転換」が起こるわけです。
 死ぬまで、煩悩具足の凡夫ですが、煩悩を起こすのを当たり前と考えていたときと、それを浅ましいことと思うようになったときでは、少しずつですが生き方が変わってきます。すなわち信心の行者には自身を深く恥じる慚愧(ざんき)と、如来の大悲への深い謝念が自ずから起こってきます。こうして真実を慕う心と、悪に対する鋭敏な感性(拒絶反応)が恵まれることによって、まことの意味での倫理性が育っていくのです。そのことはすでに両聖人(法然聖人、親鸞聖人)とも指摘されています。
【親鸞聖人の教え・問答集 梯 實圓 大法輪閣 P230、P231 Q&Aより】



勝手ながら、
「浄土への旅」というタイトルにしました。
「南無阿弥陀仏のはたらきに気付かされたひと」は、こういう心もちで1日1日生きていますよ!毎日、生活していますよ!ということを教えて下さっています。
南無阿弥陀仏の教えに導かれながらの「浄土への旅」、つまり「念仏を心の主とし、煩悩を心の客人」とした生活には安堵感があります。
ここでいうところの「価値観の転換」です。
今日も南無阿弥陀仏。