手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

命はいただきもの

 情の世界で「代われるものなら代わってやりたい」と、人間はみなそういう気持ちを
持っています。私もやっぱり子どもを失うと、そう思うでしょう。きっと代わってやりたいと思います。私の命よりも子どもの命のほうが大事、代わってやりたいと思うでしょう。しかし、命は私たちの自由にはならないのです。命はいただきものなのです。私たちのものではないのです。代わることのできないことがわかっているからこそ、そういう情の世界があるのでしょう。神さまがいて、「そこまで言うなら、お前と息子とを代えてやろうか」といわれたら、「代えてください」とは言えないかもしれません。
 そういう情の世界は情の世界としながら、仏法から見れば、自分の命は自分で自由にできないのです。なぜ自由にできないかといったら、私のものではないからです。
【平等のいのちを生きる 小川一乗 著 法蔵館 P138、P139】



ここでも述べられていますように、「わたしの命はいただきもの」です。
「わたしは生かされて生きている」といってもよいでしょう。
浄土真宗の視点からいえば、阿弥陀さまの願いの中に生かされている、ということです。
本当の救い、真の救いは、自分の計らいを超えたものに依るしかありません。
それは、南無阿弥陀仏とお念仏することです。
誤解を招かないようにいいますと、
わたしが、南無阿弥陀仏のおはたらきに気付き、南無阿弥陀仏と念仏することです。
自分の力で、念仏を称えているように思いがちですが、実は違うのです。
阿弥陀さまの南無阿弥陀仏のはたらきによるものなのです。その証拠は「南無阿弥陀仏」です。「南無阿弥陀仏」という言葉となって、「南無阿弥陀仏」という音声となって具現化されています。
となえている念仏(南無阿弥陀仏)は、いやでも報恩感謝の念仏(南無阿弥陀仏)になるのです。阿弥陀さまがそう仰っているのですから間違いありません。仏さまの世界にウソとか間違いという言葉はありません。
自分の情で、「あ〜だ、こ〜だ」と推し量っている時間があれば、ちょっと視点をかえてみてはいかがでしょうか。自分の感情や計らい、思い込みほどあてにならないものはありません。この今の救いです。すでに南無阿弥陀仏はひとりひとりに届いています。目の前です。目の前に、ご馳走があれば誰でも気付きます。もし、気付かない人がいたならば、目を開けたまま見ていないのです。勿体ないですよ。
すでに南無阿弥陀仏のはたらきに包まれているこのいま。最大のチャンスです。一般的にチャンスは掴むものですが、そのチャンスは阿弥陀さまがすでに用意されています。ですので、わたしは、南無阿弥陀仏のはたらきに気付き南無阿弥陀仏と念仏を称えればよいのです。そうはいっても・・・・・・という、自分の都合や計らいは不要です。
以上の文章を読んで
夢物語のような、お伽話のような、そんなアホな、と思われる方が多いかと思いますが、それが真実なのです。阿弥陀さまの救いは不可思議なのです。わたしが推し量れる類のものではありません。
今日も南無阿弥陀仏