手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

考えなければ始まらない

 「考える」ということを、私たちは正しく行なっているでしょうか。
 「自分の頭で考える」とは誰もが言うけれど、それを正しく行なっているでしょうか。
 たとえば、私たちは誰も自分の人生を生きていますが、その人生とは何かについて、あなたは正しく考えたことがありますか?
 「ええ、考えています、私は毎日それを考えています」。そう言う人の、その「考え」を、しかしよく聞いてみると、人生どうやって生きようかとか、生きたってイイことない、何のために生きてるんだろうか、そんなふうなとっちらかった「思い悩み」であることがほとんどです。多くの人は「悩む」ということと「考える」ということを間違えているのです。人生について、あれこれ思い悩むことを、考えることだと思っているのです。しかし、「考える」ということは、そういうことでは断じてない。
 人生についてあれこれ思い悩むためには、その人生とは何なのか、先にわかっているのでなければおかしい。しかし、人生とは何なのか、あなたはわかっているのでしょうか。この、「生きている」とは、いったいどういうことなのか。
 「生きている」ということは、当然「死んでいる」ということの反対です。死がなければ生はないのだから、生とは何かを知るためには、死とは何かを知らなければならない。しかし、現に生きている私たちに、どうして生とは、生きているとはどういうことか、わかっていると言えるでしょうか。生きているとは、人生とは、いったい何のでしょうか。
 考えるということは、こういう仕方で行なわれるものなのです。生きているなんてことは当たり前のことだと思って、誰もそんなことを考えようとしない。しかし、この当たり前のことがどういうことなのかわからなければ、それをどうしようなんてあれこれ思い悩むことはできないはずですよね。悩む前に、私たちは、まず考えなければならないのです。当たり前のことをこそ、しっかりと考えなければならない。
 そうして考え始めれば、当たり前に思っていたことが、なんと驚くべき不思議だったか、必ず気がつくはずなのです。気がついてしまったら、いよいよ深く考えるしかなくなる。この不思議を放っておいて生きるわけにはゆかなくなる。なぜって、この不思議は、自分がいま生きているという、まさにこのことなのだから。
 考えは、生死の不思議から、やがて自然の不思議、宇宙の不思議、そしてそれらが存在するということの畏るべき不思議へと、広がってゆくでしょう。そうなったとき、生きているなんてことは当たり前のことだと思って、あれこれ悩んでいたその悩みなんて、なんてつまらないことだったかがわかるでしょう。人生を生きることの面白さが本当にわかるのは、ここからなのです。皆さん、考える人生を生きましょう。
【死とは何か さて死んだのは誰なのか   池田晶子 講談社 P27~P29より】


池田晶子(いけだ あきこ)
文筆家。
1960年(昭和35年)8月21日午後9時5分、東京の一隅に生を得る。
1983年(昭和58年)3月、慶應義塾大学文学部哲学科倫理学専攻を卒業。
文筆家と自称する。池田某とも。
専門用語による「哲学」から哲学を解放する一方で、驚き、そして知りたいと
欲してただひたすら考える、その無私の精神の軌跡をできるだけ正確に表わす
こと――すなわち、考えるとはどういうことであるかを、そこに現われてくる
果てしない自由の味わいとともに、日常の言葉で美しく語る「哲学エッセイ」
を確立し、多くの読者を得る。とくに若い人々に、本質を考えることの面白さ
と形而上の切実さを、存在の謎としての生死の大切を、語り続ける。
新宿御苑神宮外苑の四季風景を執筆の伴とし、富士山麓の季節の巡りの中に
憩いを得て遊ぶ。
山を好み、先哲とコリー犬、そして美酒佳肴を生涯の友とする。
2007年(平成19年)2月23日午後9時30分、
大風の止まない東京に、癌により没す(46年6ヶ月)。
著作多数。さいごまで原稿用紙とボールペンを手放すことなし。
いながらにして宇宙旅行。出発にあたり、自らたって銘を記す。
「さて死んだのは誰なのか」
その業績と意思を記念し、精神のリレーに捧ぐ「わたくし、つまりNobody賞」
が創設された。
池田晶子ホームページ  http://www.nobody.or.jp/ より】



著者が、南無阿弥陀仏に出遇われていたかどうかはわかりませんが、
鋭い洞察力といいますか、すごい感性ですね。
『生きているなんてことは当たり前のことだと思って、誰もそんなことを考えようとしない。しかし、この当たり前のことがどういうことなのかわからなければ、それをどうしようなんてあれこれ思い悩むことはできないはずですよね。悩む前に、私たちは、まず考えなければならないのです。当たり前のことをこそ、しっかりと考えなければならない。』


南無阿弥陀仏」視点でいいますと、
わたしが・このいま・ここに、生きていることが当たり前と思っていることが、
実は当たり前でなかったことに気付かされるときが必ずきます。
阿弥陀仏の願いに包まれて生かされていることに気付かされた人生には、安堵感があります。


最後に、
『生きているとは、人生とは、いったい何のでしょうか?』 の回答は、ズバリ、仏教にあります。
もっと掘り下げますと、
親鸞聖人の教え、つまり浄土真宗の教えにあります。
その教えに、いま、ここで、出遇えた(出遇えている)わたしは仕合わせものです。
今日も南無阿弥陀仏



      保存缶 あたり前田のクラッカー(プルニエ)より