手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

仏教は、果において因を自覚していく教え

 釈尊はその当時のインドの宗教で常識となっていた輪廻転生説を否定しました。そして、釈尊の業思想の基本は、自覚的な「自業自得」ということです。自らの行った行為の責任は自分で持つということ。何が善やら、何が悪やらわからないけれども、善悪というものは基準によって変わるわけですから、戦争で百人殺せば勲章をもらえるし、私たちが人一人でも殺せば死刑になるように、善悪というものは人間が作り上げたもので、何が善やら、何が悪やらわからない。ただ自分の行った行為の責任は自分がとるというのが基本です。それが釈尊の業論ですですから他律的な「善因楽果、悪因苦果」というのは、釈尊の業論の基本ではないのです。ところが、この世で善業を行ってよい種を蒔いたら来世で幸せな良い生まれがあるというように、仏教と道徳が結びついたかたちで、もろもろの経典の中に説かれています。本来仏教は、道徳としての善悪とは関係なかったのに、仏教と道徳を結びつけてしまったから困ったことになるのです。


 このことについて、仏教を考えるうえで大事なことを一つだけお話したいと思います。それは「因があって果がある」ということについてです。みなさんは因から果が生じると思っているでしょうが、それは仏教的な理解ではないのです事実は、果から因があるのです。果において因が明らかになるのです。種から芽が生じますが、芽が生じたときに種という意味を成すのです。芽が生じなかったら種ではないのです。それを私たちは物を固定的にとらえるから、芽が生じなくても種は種だと思い込んでしまうのです。


 たとえば親から子が生まれるといいますが、とんでもないですよ。親から子が生まれるのなら、子どもが生まれる前に親がいることになりますが、そんなことはあり得ないでしょう。子どもが生まれたから親になるのです。親がまずいて、親から子が生まれるということではないのです。ですから、種がまずあって、芽が生じるという仮説的な考え方を釈尊はしていません。釈尊は果において因を自覚する。そこに罪悪深重という、深い自覚があるわけです。


 ところが、過去の仏教の歴史において間違った宿業観を説いた時代がありましたが、これは決定的に間違っています。宿業というのは、因にあるのではないのです。果において発見されるものです。果において自覚されるものです。それを実体論的にとらえて、自覚も何も抜きにして、まず因があってそうなったのだという、そういう実態論的な常識が間違った宿業論として展開されてきました。釈尊が聞いたら驚かれると思います。


 釈尊は、自分の苦悩という結果のうえに無明という原因を見たわけです。自分の無知という世界を見た。また、苦悩という現実の身において、渇愛という原因を見たわけです。それはあくまでも、苦悩している自己の身において発見されたものです。それを仏弟子たちは、無明があるから苦しみがあるんだというように逆転してしまったわけです。無明の中に生きながら、割愛のままに生きながら、自分の苦悩を自覚しないで生きている人はたくさんいます。無明や渇愛が先にあるものならば、すべての人が苦悩しなければなりませんが、そうではないのです。それらは、現在の苦悩する我が身において自覚されるものです。


 宿業もそうです。この現在の我が身の生きざまを深く深く見つめることによって、自分の罪業というか、自分の過去を自覚していくという現在の果において発見されるもの、果において自覚されるものが宿業なのです。そのことを間違えないようにしないといけません。


 宿業というのは、今生きているこの身のうえにおいて「ああ、そうだったなあ」とうなずかせてもらうのが宿業なのです。たとえば、太った人がいるとします。その太った人は自分の自覚において、「いつも食べてばかりいるから太ったんだなあ」と考えます。ちゃんと朝・昼・晩、少しずつ食べていれば太ることもないのに、間食をしたり、お菓子を食べてお茶を飲んだり、いろいろなことをしているから太ったんだなあと。しかし、それはあくまでも、その人の原因です。それをたくさん食べたら必ず太るという論理にしたら、間違いが起こるでしょう。痩せの大食いということもありますからね。いくら食べても太らない人もいるでしょう。それから病気で太る人もいます。だから、体が太るということは、すべて理由は別々なのです。たくさん食べて太る人、いくら食べても太らない人。それを、因果を逆転してしまうと、たくさん食べたら太るという論理になり、太らない人が出てきたら困るわけです。それでまたゴチャゴチャといろいろな理屈をこねまわさなければならなくなり、仏教を難しくしていったわけです。(略)


 必ず果から因を考えてください。逆に因から果を考えると、そうならないことのほうが多いのです。因から果を仮設するのは科学です。仏教は科学ではありません。仏教は果において因を自覚していく。そこにおいてうなずきが出てきます。念仏を称えたら助かるのではないのです。念仏を称えることが因となって助かるのではない。助かっている身の事実において念仏が出てくるのであって、念仏を手段としてはいけません。そういうように、常に果から因を自覚的にとらえていく。そういうことが釈尊の説かれた業論であると言っていいと思います。たぶん仏教の長い歴史の中には、因から果を考えていくということがしみついていますから、そういうことが経典の中やいろいろな論書の中で説かれていますけれども、私たちはそれをもう一回見直していかなければなりません。
【平等のいのちを生きる 小川一乗 著 法蔵館 P86~P91 釈尊の業思想の基本より】
【他律】た‐りつ
1 自らの意志によらず、他からの命令、強制によって行動すること。⇔自律。
2 他の領域に支配されること。
3 《(ドイツ)Heteronomie》カントの道徳哲学で、意志が理性の先天的な法則に従わず、感性の、自然的欲望に拘束されること。⇔自律。
※ 国語辞書 - goo辞書より



仏教は、道徳や科学ではありません。
それらのものとゴチャ混ぜにして解釈することで、「仏教は難しいもの」となってしまっている現状があります。
ここでも述べられていますように、
仏教は果において因を自覚していく。そこにおいて頷きが出てくる教え、です。
とりわけ、浄土真宗の視点でいいますと、
南無阿弥陀仏」と称える念仏は、私が助かるための手段ではありません。報恩感謝の念仏です。平たくいえば、「ありがとうございます!」の念仏です。
今日も南無阿弥陀仏